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イエスとは誰か? — ストロング番号付きKJV聖書スタディ
イエスとは誰か · 創世記から黙示録までの聖書をたどる旅
聖書の基礎教理 — イエス・キリストの福音
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イエスが生まれる七百年前、一人の預言者がこの子が何と呼ばれるかを書き記しました。それは人間に与えるような名前ではありません。この学びを読むために何かを信じる必要はありません。ただ、見ようとする意志さえあればよいのです。生きている人のほとんどがイエスという名前を耳にしたことがあります。しかし、聖書自身が彼について何を語っているかを実際に読み、自分自身でそれを吟味した人はごくわずかです。あなたが今日何を信じていようと、またこれまで何を教えられてきたとしても、私たちにとっては何の違いもありません。あなたがここにいて、原典からイエスについての理解を広げようとしていることを、私たちは喜んでいます。すべての聖句は全文が印刷されているので、文章の一部だけでなく全体を見ることができます。聖書が直接何かを述べている箇所では、この学びもそのように述べます。聖句を並べて考えることで結論が導かれる箇所では、この学びもそのことを述べます。ここには、誰か一人の言葉だけに依存しているものは何もありません。さあ、預言者が書いたことを読んでください。
OPENING ANCHOR(冒頭のアンカー)
イザヤ書 9:6 シェア↗ ひとりのみどりごがわれわれのために 生 れた、 ひとりの 男 の 子 がわれわれに 与 えられた。 まつりごとはその 肩 にあり、 その 名 は、「 霊妙 なる 議 士 、 大能 の 神 、 とこしえの 父 、 平和 の 君 」ととなえられる。
ひとりのみどりごが生まれ + ひとりの男の子が与えられる → その名は大能の神ととなえられる。
イエスの誕生の七百年前、ひとりの預言者が、この子は「力ある神」と呼ばれると記した。幼子イエスは飼い葉桶に横たえられた。この聖句をゆっくりと読みなさい。これらの聖句は、この研究全体のメッセージを語っている。
1. A. 「われわれは」と言われた神 — 唯一の神であり、語る者は一人にとどまらない
1. 創世記 1:26 シェア↗ 神 はまた 言 われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって 人 を 造 り、これに 海 の 魚 と、 空 の 鳥 と、 家畜 と、 地 のすべての 獣 と、 地 のすべての 這 うものとを 治 めさせよう」。 (27) 神 は 自分 のかたちに 人 を 創造 された。すなわち、 神 のかたちに 創造 し、 男 と 女 とに 創造 された。
われら形の如くに我らに似せて人を造らん → 神はその形の如くに人を創造したまへり。
(私の個人的な考え:創世記1章26節と1章27節を合わせて読みなさい。この二つの節の違いを和らげてはならない。創世記1章26節には「われわれ」「われわれの」とある。創世記1章27節には「自分のかたちに」「神は創造された」とあり、どちらも単数形である。聖書はこの二つの節を、弁明することなく並べて記している。聖書はただそのまま両方を記しているだけである。)
2. 創世記 3:22 シェア↗ 主 なる 神 は 言 われた、「 見 よ、 人 はわれわれのひとりのようになり、 善悪 を 知 るものとなった。 彼 は 手 を 伸 べ、 命 の 木 からも 取 って 食 べ、 永久 に 生 きるかも 知 れない」。
視よ、人は我らの一人のごとくなりて善悪を知るに至れり。
3. 創世記 11:7 シェア↗ さあ、われわれは 下 って 行 って、そこで 彼 らの 言葉 を 乱 し、 互 に 言葉 が 通 じないようにしよう」。
われわれは下って行って、彼らの言葉を乱そう。
4. イザヤ書 6:8 シェア↗ わたしはまた 主 の 言 われる 声 を 聞 いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために 行 くだろうか」。その 時 わたしは 言 った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
わたしはだれを遣わそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。
(私個人の考え:イザヤ書6章8節をよく見てください。この一つの節には、同じ文の中に両方の形が出てきます。「わたしは誰を遣わすべきか」と「われわれのために行く者はだれか」です。同じ語り手が単数形と複数形を一緒に使っているのです。これは書き間違いではなく、また神が単数の自分を describe するために複数の言葉を使っているのでもありません。この同じパターンは、聖書の多くの異なる書、多くの世紀にわたって、何度も見られます。)
5. 申命記 6:4 シェア↗ イスラエルよ 聞 け。われわれの 神 、 主 は 唯一 の 主 である。 原語キー / Strong’s: ⚑ H259 echad
イスラエルよ 聞 け。われわれの 神 、 主 は 唯一 の 主 である.
(私自身の思い:申命記6章4節はこの学び全体を支配している。神は唯一であり、ただ一人である。二人でも、三人でも、多くでもない。この学びの中で第二の神を示唆するように見えるいかなる節も、誤って読まれているのであり、申命記6章4節がそれを判別する試金石である。この節が「一」に用いているヘブライ語の言葉に注目せよ。その言葉はエハドである。これは、夕と朝とが二つの部分を持ちながらも「一日」と呼ばれるときに用いられるのと同じ言葉であり、また、男とその妻とが二人でありながら「一体」と呼ばれるときに用いられるのと同じ言葉である。聖書は、一人以上の人格をその内に含み得る「一」という言葉を選んだのである。そして創世記1章26節には、神が「われら」と言われたことが記されている。)
6. イザヤ書 45:5 シェア↗ わたしは 主 である。 わたしのほかに 神 はない、ひとりもない。 あなたがわたしを 知 らなくても、 わたしはあなたを 強 くする。
わたしは主である + ほかに神はない + わたしのほかに神はない。
(私個人の思い:イザヤ書45章5節はこの真理のもう一つの側面を述べており、この研究はそれを避けることはしない。神は、ご自分のほかに神はいないと明確に述べておられる。これから先のページで見出されることが何であれ、決して第二の神を付け加えることにはならない。実際に見出されるのは、第二の神よりも不思議で、より優れたものである。すなわち、唯一の神ご自身が人々にご自身を知らしめてくださるということである。)
2. B. 主の使いと呼ばれる方 — 神とも呼ばれる方
「御使い」と訳されるヘブライ語はマラク(H4397)である。マラクとは、遣わされた者という意味である。マラクは、遣わされた者の任務を示す名称であって、その者の本質を示すものではない。以下の記事において、聖書がこの特定の遣わされた者をどのように扱っているかに注目せよ。
3. B1. 荒野のハガル — 彼女は彼に名をつける
創世記 16:7 シェア↗ 主 の 使 は 荒野 にある 泉 のほとり、すなわちシュルの 道 にある 泉 のほとりで、 彼女 に 会 い、 (8) そして 言 った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ 行 くのですか」。 彼女 は 言 った、「わたしは 女 主人 サライの 顔 を 避 けて 逃 げているのです」。 (9) 主 の 使 は 彼女 に 言 った、「あなたは 女 主人 のもとに 帰 って、その 手 に 身 を 任 せなさい」。 (10) 主 の 使 はまた 彼女 に 言 った、「わたしは 大 いにあなたの 子孫 を 増 して、 数 えきれないほどに 多 くしましょう」。 原語キー / Strong’s: ⚑ H4397 malak
主 の 使 はまた 彼女 に 言 った、「わたしは 大 いにあなたの 子孫 を 増 して.
創世記 16:13 シェア↗ そこで、ハガルは 自分 に 語 られた 主 の 名 を 呼 んで、「あなたはエル・ロイです」と 言 った。 彼女 が「ここでも、わたしを 見 ていられるかたのうしろを 拝 めたのか」と 言 ったことによる。
そこで、ハガルは 自分 に 語 られた 主 の 名 を 呼 んで、「あなたはエル・ロイです」と 言 った.
(私個人の考え:創世記16章にある二つのことは、読む者の足を止めるはずである。第一に、「主の使い」と呼ばれる方が「わたしはあなたの子孫を大いに増そう」と言われる。「主があなたの子孫を大いに増されるであろう」とは言わない。この方は、増やす業を行う者として語っておられるのである。第二に、ハガルの意見ではなく、聖書の本文そのものが、この主の使いを「彼女に語られた主」と呼んでいる。ハガルはこの同じ方を「あなたは神」と呼ぶ。創世記の記者もハガルと同じ見解に立っている。)
4. B2. イサクの上に置かれた手 — 主は自らにかけて誓われる
創世記 22:11 シェア↗ 主 の 使 が 天 から 彼 を 呼 んで 言 った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。 彼 は 答 えた、「はい、ここにおります」。 (12) み 使 が 言 った、「わらべを 手 にかけてはならない。また 何 も 彼 にしてはならない。あなたの 子 、あなたのひとり 子 をさえ、わたしのために 惜 しまないので、あなたが 神 を 恐 れる 者 であることをわたしは 今 知 った」。
あなたが 神 を 恐 れる 者 であることをわたしは 今 知 った」.
創世記 22:15 シェア↗ 主 の 使 は 再 び 天 からアブラハムを 呼 んで、 (16) 言 った、「 主 は 言 われた、『わたしは 自分 をさして 誓 う。あなたがこの 事 をし、あなたの 子 、あなたのひとり 子 をも 惜 しまなかったので、 (17) わたしは 大 いにあなたを 祝福 し、 大 いにあなたの 子孫 をふやして、 天 の 星 のように、 浜 べの 砂 のようにする。あなたの 子孫 は 敵 の 門 を 打 ち 取 り、 (18) また 地 のもろもろの 国民 はあなたの 子孫 によって 祝福 を 得 るであろう。あなたがわたしの 言葉 に 従 ったからである』」。
主は言い給う、我は己にかけて誓えり。なんじの裔によりて地の全ての国民は祝福を得ん。
(私個人の考察:創世記22章11-18節にある二つの言葉に注目してほしい。第一の言葉は「あなたはあなたの子をわたしから惜しまなかった」である。アブラハムは自分の息子を神にささげようとしていた。この言葉の話者は、息子が話者から惜しまれなかったと言っている。第二の言葉は「主は言われる、わたしは自分自身にかけて誓う」である。古代においては、人はその人よりも偉大な者にかけて誓うものであった。ただ言葉を伝えるだけの被造物である使者は、自分自身にかけて誓うことはしない。被造物である使者は、神の契約の名によって誓いに署名することはしない。ヘブル人への手紙6章13節はその理由を示している。ヘブル人への手紙6章13節は、神がご自身にかけて誓われたと述べている。ヘブル人への手紙6章13節はその理由をこう述べている、「それより大いなるものがなかったから」。)
5. B3. ヤコブはある人と格闘する — その場所を「神の顔」と名付ける
創世記 32:24 シェア↗ ヤコブはひとりあとに 残 ったが、ひとりの 人 が、 夜明 けまで 彼 と 組打 ちした。 (25) ところでその 人 はヤコブに 勝 てないのを 見 て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その 人 と 組打 ちするあいだにはずれた。 (26) その 人 は 言 った、「 夜 が 明 けるからわたしを 去 らせてください」。ヤコブは 答 えた、「わたしを 祝福 してくださらないなら、あなたを 去 らせません」。
ひとりの人が彼と組み打ちした→あなたがわたしを祝福してくださらなければ、あなたを去らせません。
創世記 32:28 シェア↗ その 人 は 言 った、「あなたはもはや 名 をヤコブと 言 わず、イスラエルと 言 いなさい。あなたが 神 と 人 とに、 力 を 争 って 勝 ったからです」。 (29) ヤコブは 尋 ねて 言 った、「どうかわたしにあなたの 名 を 知 らせてください」。するとその 人 は、「なぜあなたはわたしの 名 をきくのですか」と 言 ったが、その 所 で 彼 を 祝福 した。 (30) そこでヤコブはその 所 の 名 をペニエルと 名 づけて 言 った、「わたしは 顔 と 顔 をあわせて 神 を 見 たが、なお 生 きている」。
汝は君として神と力を争いて勝てり → われ面と面とを合わせて神を見たるに、なお生命ながらえたり。
(私個人の考え:創世記32章の本文は、この人物を「人」と呼んでいます。ヤコブと格闘したこの人は、ヤコブが神とともに力を持っていると言います。ヤコブはその場所を「神の顔」と名付けます。ヤコブは自分の命が救われたと言います。ヤコブはこの人に名前を尋ねます。ヤコブは名前を受け取らず、逆に問いを返されるだけです。この答えられなかった名前についての問いを覚えておいてください。同じ問いが、何百年も後、聖書の別の書において再び現れます。)
6. B4. 燃える柴 — 「わたしは有る」という御使い
出エジプト記 3:2 シェア↗ ときに 主 の 使 は、しばの 中 の 炎 のうちに 彼 に 現 れた。 彼 が 見 ると、しばは 火 に 燃 えているのに、そのしばはなくならなかった。 (3) モーセは 言 った、「 行 ってこの 大 きな 見 ものを 見 、なぜしばが 燃 えてしまわないかを 知 ろう」。 (4) 主 は 彼 がきて 見定 ようとするのを 見 、 神 はしばの 中 から 彼 を 呼 んで、「モーセよ、モーセよ」と 言 われた。 彼 は「ここにいます」と 言 った。 (5) 神 は 言 われた、「ここに 近 づいてはいけない。 足 からくつを 脱 ぎなさい。あなたが 立 っているその 場所 は 聖 なる 地 だからである」。 (6) また 言 われた、「わたしは、あなたの 先祖 の 神 、アブラハムの 神 、イサクの 神 、ヤコブの 神 である」。モーセは 神 を 見 ることを 恐 れたので 顔 を 隠 した。
主の使いは火の炎のうちに現れたり。神は柴の中より彼に呼びかけ給えり。
出エジプト記 3:14 シェア↗ 神 はモーセに 言 われた、「わたしは、 有 って 有 る 者 」。また 言 われた、「イスラエルの 人々 にこう 言 いなさい、『「わたしは 有 る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
わたしは有りて有る者 → 「わたしは有る」が、わたしをあなたたちに遣わされた。
(私自身の考え:出エジプト記3章2節には主の使いとある。それから二節後の出エジプト記3章4節には、主、また神とある。同じ柴、同じ火、同じ声が両方に現れる。聖書はこれを決して矛盾として扱わない。この同じ声が、それからイスラエルが永遠に担うべき名を告げる。「我は有りて在る者なり」。)
7. 異なる視点、同じ場面 — 燃える柴と、宮の庭にいるイエス
ヨハネによる福音書 8:56 シェア↗ あなたがたの 父 アブラハムは、わたしのこの 日 を 見 ようとして 楽 しんでいた。そしてそれを 見 て 喜 んだ」。 (57) そこでユダヤ 人 たちはイエスに 言 った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを 見 たのか」。 (58) イエスは 彼 らに 言 われた、「よくよくあなたがたに 言 っておく。アブラハムの 生 れる 前 からわたしは、いるのである」。 (59) そこで 彼 らは 石 をとって、イエスに 投 げつけようとした。しかし、イエスは 身 を 隠 して、 宮 から 出 て 行 かれた。
アブラハムが生まれる前から、わたしはある。→ そこで彼らは石をとって、彼に投げつけようとした。
(私の個人的な考察:この二つの場面を並べて、その違いに教えを学ばせよう。柴の前では、火の中から出る声が「私はある」と言う。モーセは柴の前で顔を隠す。神殿では、群衆の前に立つ一人の人が「私はある」と言う。群衆は石を取り上げる。群衆はイエスが何を言ったのか混乱していたのではない。群衆はイエスの言葉を正確に理解していた。群衆はイエスの言葉を石打ちに値すると判断した。またイエスが「アブラハムが生まれる前、私はあった」とは言わず、「私はある」と言ったことにも注目せよ。)
8. B5. マノアとその妻 — 「不思議」という名
士師記 13:3 シェア↗ 主 の 使 がその 女 に 現 れて 言 った、「あなたはうまずめで、 子 を 産 んだことがありません。しかし、あなたは 身 ごもって 男 の 子 を 産 むでしょう。
主 の 使 がその 女 に 現 れて 言 った → あなたは 身 ごもって 男 の 子 を 産 むでしょう.
士師記 13:17 シェア↗ マノアは 主 の 使 に 言 った、「あなたの 名 はなんといいますか。あなたの 言 われたことが 事実 となったとき、わたしたちはあなたをあがめましょう」。 (18) 主 の 使 は 彼 に 言 った、「わたしの 名 は 不思議 です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか」。 原語キー / Strong’s: ⚑ H6383 piliy
「わたしの 名 は 不思議 です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか」?
士師記 13:20 シェア↗ すなわち 炎 が 祭壇 から 天 にあがったとき、 主 の 使 は 祭壇 の 炎 のうちにあってのぼった。マノアとその 妻 は 見 て、 地 にひれ 伏 した。 (21) 主 の 使 はふたたびマノアとその 妻 に 現 れなかった。その 時 マノアは 彼 が 主 の 使 であることを 知 った。 (22) マノアは 妻 に 向 かって 言 った、「わたしたちは 神 を 見 たから、きっと 死 ぬであろう」。
主の使いは祭壇の炎の中を上って行った → 私たちは神を見たのだから、必ず死ぬに違いない。
(私個人の感想:士師記13章には三つの点が際立っている。マノアは名を尋ねる、ちょうど創世記32章でヤコブがしたのと同じように。名は再びマノアに対して隠される、今回はその理由が述べられている。その理由として与えられているヘブライ語はピリー(H6383)である。欽定訳(KJV)はピリーを「秘密」と訳している。ピリーは「知られるにはあまりにも不思議な」という意味である。ピリーは、イザヤ書9章6節で私たちのために生まれる子が「不思議」と訳されている語ペレ(H6382)と同じ語根に由来する。この同じ主の使いは、その後、祭壇の炎の中を上って行く。マノア自身の結論は「私たちは御使いを見た」ではない。マノアの結論は「私たちは神を見た」である。)
9. B6. エリコの外の将軍──礼拝され、履物を脱ぐ
ヨシュア記 5:13 シェア↗ ヨシュアがエリコの 近 くにいたとき、 目 を 上 げて 見 ると、ひとりの 人 が 抜 き 身 のつるぎを 手 に 持 ち、こちらに 向 かって 立 っていたので、ヨシュアはその 人 のところへ 行 って 言 った、「あなたはわれわれを 助 けるのですか。それともわれわれの 敵 を 助 けるのですか」。 (14) 彼 は 言 った、「いや、わたしは 主 の 軍勢 の 将 として 今 きたのだ」。ヨシュアは 地 にひれ 伏 し 拝 して 言 った、「わが 主 は 何 をしもべに 告 げようとされるのですか」。 (15) すると 主 の 軍勢 の 将 はヨシュアに 言 った、「あなたの 足 のくつを 脱 ぎなさい。あなたが 立 っている 所 は 聖 なる 所 である」。ヨシュアはそのようにした。 原語キー / Strong’s: ⚑ H8269 sar
ヨシュアは地にひれ伏して拝した。あなたの足のくつを脱げ、あなたの立っている場所は聖なる地であるから。
10. 異なる視点、同じ場面 — 靴を脱ぐように命じられた二人の人物
出エジプト記 3:5 シェア↗ 神 は 言 われた、「ここに 近 づいてはいけない。 足 からくつを 脱 ぎなさい。あなたが 立 っているその 場所 は 聖 なる 地 だからである」。
足 からくつを 脱 ぎなさい。あなたが 立 っているその 場所 は 聖 なる 地 だからである」.
(私の個人的な考察:何百年もの隔たりを持つ二人の異なる人物に、ほとんど同じ言葉で同じ命令が与えられていることに注目してほしい。柴の前では、その命令は聖書の本文が主また神と呼ぶ声から来ている。エリコの外では、その命令は手に剣を持って立っている一人の人物から来ている。ヨシュアはひれ伏し、この人物を礼拝する。その人物は礼拝を拒まない。これを、造られた実在の御使いが、人が御使いを礼拝しようとしたときにどうするかと比べてみてほしい。御使いは「われは汝と同じく僕たる者なり」(黙示録19:10)、また「なんじ神を拝せよ」(黙示録22:9)と言う。ヨハネは二度御使いを礼拝しようとしたが、その両方とも御使いはそれを拒んだ。エリコの外でヨシュアの礼拝を拒んだ者は誰もいなかった。)
11. B7. さて新約聖書は非常に明白なことを述べている
ヨハネによる福音書 1:18 シェア↗ 神 を 見 た 者 はまだひとりもいない。ただ 父 のふところにいるひとり 子 なる 神 だけが、 神 をあらわしたのである。 原語キー / Strong’s: ⚑ G3439 monogenes · ⚑ G1834 exegeomai
いまだかつて神を見た者はいない → ひとり子なる神が、神を明らかにされた。
ヨハネによる福音書 5:37 シェア↗ また、わたしをつかわされた 父 も、ご 自分 でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ 声 を 聞 いたこともなく、そのみ 姿 を 見 たこともない。
まだそのみ 声 を 聞 いたこともなく、そのみ 姿 を 見 たこともない.
テモテへの第一の手紙 6:16 シェア↗ 神 はただひとり 不 死 を 保 ち、 近 づきがたい 光 の 中 に 住 み、 人間 の 中 でだれも 見 た 者 がなく、 見 ることもできないかたである。ほまれと 永遠 の 支配 とが、 神 にあるように、アァメン。
人の近づき得ない光の中に住み → だれも彼を見たことがなく、また見ることもできない。
さて聖書の二つの部分を並べて置き、その二つを共に読んでみましょう。
旧約聖書は繰り返し繰り返し語っている。人々がこの方を見、この方と語り、この方の前で食事をし、この方と格闘し、それでもなお生きていたと。
新約聖書は、はっきりと、そして三度にわたって、誰も父なる神を見た者はなく、誰も父なる神を見ることはできないと述べている。
どちらの記述も真実です。それゆえ、旧約聖書において人々が見た人物と、人々が見ることのできなかった父とは、同一人物ではありません。ヨハネは、その見られた人物が誰であるかを述べています。彼は、その見られた人物は独り子であり、父のふところにいる御子であり、そしてこの御子が、父なる神を人々の見えるところへ現し出したのだと語っています。
[諸節を組み合わせたものであり、単一の節がこれを単独で述べているわけではない]
(私個人の考え:ここは注意深く、正直でいなければならない。ここはまさに、人がこっそり聖書に付け加えを始めてしまう地点だからだ。直接述べられていることは何か。旧約聖書の本文自体が、この遣わされた者を主また神と呼んでおり、この遣わされた者に出会った人々も同じことを言っている。これは結論ではない。文がそのまま語っていることである。複数の節を結び合わせて到達することは何か。この特定の、目に見える人物が、具体的に御子であるということだ。「創世記16章の主の使いはイエスである」と直接述べている節は一つもない。この結論は、ヨハネ1:18、ヨハネ5:37、テモテへの第一の手紙6:16を旧約聖書の記述と並べて、誰が見られていたのかを問うことによって到達されるものである。だからこそ、そこにタグがあり、そのタグはそのまま残る。)
12. B8. そして主なる使者は旧約聖書のまさに最後において再び現れる
マラキ書 3:1 シェア↗ 「 見 よ、わたしはわが 使者 をつかわす。 彼 はわたしの 前 に 道 を 備 える。またあなたがたが 求 める 所 の 主 は、たちまちその 宮 に 来 る。 見 よ、あなたがたの 喜 ぶ 契約 の 使者 が 来 ると、 万軍 の 主 が 言 われる。 原語キー / Strong’s: ⚑ H4397 malak
見よ、わたしはわたしの使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。主は突然その宮に来られる。契約の使者である。
13. 別の視点、同じ場面 — 約束された使者と、その使者が誰であるかが示される
マルコによる福音書 1:2 シェア↗ 預言者 イザヤの 書 に、 「 見 よ、わたしは 使 をあなたの 先 につかわし、 あなたの 道 を 整 えさせるであろう。 (3) 荒野 で 呼 ばわる 者 の 声 がする、 『 主 の 道 を 備 えよ、 その 道 筋 をまっすぐにせよ』」 と 書 いてあるように、 (4) バプテスマのヨハネが 荒野 に 現 れて、 罪 のゆるしを 得 させる 悔改 めのバプテスマを 宣 べ 伝 えていた。
「 見 よ、わたしは 使 をあなたの 先 につかわし → 『 主 の 道 を 備 えよ.
(私の個人的な考え:マラキ書3章1節は一つの節の中で二人の遣わされた者を示している。一人の遣わされた者は道を整えるために先に行く。もう一人の遣わされた者は「主」および「契約の使者」と呼ばれている。この第二の遣わされた者こそ、主ご自身の宮に来られる方である。マルコはマルコの福音書の冒頭で、まさにこのマラキ書3章1節の言葉を引用している。マルコは道を整える者を、荒野にいるヨハネと名づけている。これによって、その時点では第二の遣わされた者はマルコによって名前を示されないままとなる。旧約聖書は、主である使者を待ち望みながら閉じられる。新約聖書は、まさにその使者が歩み入るところから始まる。)
14. 一人子に負わされた薪 — 山の上のアブラハムとイサク
1. 創世記 22:2 シェア↗ 神 は 言 われた、「あなたの 子 、あなたの 愛 するひとり 子 イサクを 連 れてモリヤの 地 に 行 き、わたしが 示 す 山 で 彼 を 燔祭 としてささげなさい」。 原語キー / Strong’s: ⚑ H3173 yachiyd
汝の子、汝の愛する独子イサクを取りて → 彼處にて燔祭としてこれを献げよ。
2. 創世記 22:6 シェア↗ アブラハムは 燔祭 のたきぎを 取 って、その 子 イサクに 負 わせ、 手 に 火 と 刃物 とを 執 って、ふたり 一緒 に 行 った。 原語キー / Strong’s: ⚑ H6086 ets
アブラハムは 燔祭 のたきぎを 取 って、その 子 イサクに 負 わせ → ふたり 一緒 に 行 った.
(私の個人的な考え:創世記22章6節において、父は薪を運ばない。イサクが薪を背負って山を登る。アブラハムはイサクをその薪の上に載せようとしている。その薪を表すヘブライ語はエツ(H6086)である。これは生きている木を指す普通の言葉であり、また切り出された材木をも指す。同じ言葉が、いのちの木、そして園の中央にある木をも表している。)
3. 創世記 22:7 シェア↗ やがてイサクは 父 アブラハムに 言 った、「 父 よ」。 彼 は 答 えた、「 子 よ、わたしはここにいます」。イサクは 言 った、「 火 とたきぎとはありますが、 燔祭 の 小羊 はどこにありますか」。 (8) アブラハムは 言 った、「 子 よ、 神 みずから 燔祭 の 小羊 を 備 えてくださるであろう」。こうしてふたりは 一緒 に 行 った。
燔祭の子羊はどこにいるのですか → 神ご自身が子羊を備えてくださる。
4. 創世記 22:13 シェア↗ この 時 アブラハムが 目 をあげて 見 ると、うしろに、 角 をやぶに 掛 けている一 頭 の 雄羊 がいた。アブラハムは 行 ってその 雄羊 を 捕 え、それをその 子 のかわりに 燔祭 としてささげた。
角を藪にひっかけた一匹の雄羊 → それを子の代わりに燔祭としてささげた。
創世記 22:14 シェア↗ それでアブラハムはその 所 の 名 をアドナイ・エレと 呼 んだ。これにより、 人々 は 今日 もなお「 主 の 山 に 備 えあり」と 言 う。
人々 は 今日 もなお「 主 の 山 に 備 えあり」と 言 う.
(私の個人的な考察:創世記22章7節の息子の問いをもう一度考えてみよう。「羊はどこにありますか」。アブラハムはその問いに答える。アブラハムの答えは、彼自身が知っていた以上に遠くまで及んでいる。アブラハムは「神が全焼のいけにえのために、自ら羊を備えてくださる」と言う。この言葉には二つの意味があり得る。一つの意味は、神が自分のために羊を用意するということである。もう一つの意味は、神御自身がその羊となって備えられるということである。その日、神が実際に備えられたのは「羊」ではなく「雄羊」であった。雄羊とは成長した雄の羊である。この雄羊は角を捕らえられ、息子の代わりに死んだ。イサクの問いは、ある意味では山の上で答えられている。しかし別の意味では、イサクの問いはなお開かれたままである。羊はまだ負債として残っている。アブラハムはその場所に、未来の約束の言葉をもって名をつけた。「主の山に、それは見られるであろう。」)
15. 異なる視点、同じ場面 — 薪を運んだ息子と、十字架を担われた御子
創世記 22:6 シェア↗ アブラハムは 燔祭 のたきぎを 取 って、その 子 イサクに 負 わせ、 手 に 火 と 刃物 とを 執 って、ふたり 一緒 に 行 った。
アブラハムはたきぎを子イサクの上に負わせた → ふたりは一緒に歩んで行った。
ヨハネによる福音書 19:17 シェア↗ イエスはみずから 十字架 を 背負 って、されこうべ(ヘブル 語 ではゴルゴダ)という 場所 に 出 て 行 かれた。
イエスはみずから 十字架 を 背負 って.
ヨハネによる福音書 19:18 シェア↗ 彼 らはそこで、イエスを 十字架 につけた。イエスをまん 中 にして、ほかのふたりの 者 を 両側 に、イエスと 一緒 に 十字架 につけた。
そこで彼らは彼を十字架につけた + イエスは中央に。
(私自身の考え:一人の父、父が愛する一人息子、一つの丘、息子自身の背に負わされた木、そしてその木を負って丘を上って行く息子。この場面は聖書の中で二度起こりました。最初は創世記22章で、神が刃を止められました。神は息子の代わりに一頭の雄羊を置かれました。二度目は十字架の上で、誰もその死を止めませんでした。この時は、御子ご自身が代わりの供え物となられました。二つの場面の間にもう一つの違いがあることに注目してください。イサクは「羊はどこにいるのですか」と尋ねました。その日、イサクの問いに対する答えはありませんでした。答えはその後、ヨルダン川のほとりで、ヨハネから与えられました。ヨハネは自分の方に歩いて来る一人の人を指し示したのです。)
1. ヨハネによる福音書 1:29 シェア↗ その 翌日 、ヨハネはイエスが 自分 の 方 にこられるのを 見 て 言 った、「 見 よ、 世 の 罪 を 取 り 除 く 神 の 小羊 。
「 見 よ、 世 の 罪 を 取 り 除 く 神 の 小羊.
2. 創世記 22:2 シェア↗ 神 は 言 われた、「あなたの 子 、あなたの 愛 するひとり 子 イサクを 連 れてモリヤの 地 に 行 き、わたしが 示 す 山 で 彼 を 燔祭 としてささげなさい」。
ヨハネによる福音書 3:16 シェア↗ 神 はそのひとり 子 を 賜 わったほどに、この 世 を 愛 して 下 さった。それは 御子 を 信 じる 者 がひとりも 滅 びないで、 永遠 の 命 を 得 るためである。 原語キー / Strong’s: ⚑ G3439 monogenes
あなたの独り子、あなたの愛する者 → 神はその独り子を賜わった。
3. ヘブル人への手紙 11:17 シェア↗ 信仰 によって、アブラハムは、 試錬 を 受 けたとき、イサクをささげた。すなわち、 約束 を 受 けていた 彼 が、そのひとり 子 をささげたのである。 (18) この 子 については、「イサクから 出 る 者 が、あなたの 子孫 と 呼 ばれるであろう」と 言 われていたのであった。 (19) 彼 は、 神 が 死人 の 中 から 人 をよみがえらせる 力 がある、と 信 じていたのである。だから 彼 は、いわば、イサクを 生 きかえして 渡 されたわけである。
彼はそのひとり子を献げた → 神が死者の中からでも彼を起こすことができると考えていたからである。
(私の個人的な考え:ヘブル人への手紙の著者は、イサクについて、ヨハネがイエスについて用いたのと同じギリシャ語を使っています。その語は「ひとり子」、モノゲネース(G3439)です。ヘブル人への手紙の著者は、山を登る途中でアブラハムが何を考えていたかを私たちに教えてくれます。アブラハムは、神がその子を死人の中からよみがえらせることができると考えていました。アブラハムは山のふもとにいた若者たちに「私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、また戻ってくる」と言いました。アブラハムはイサクと共に山を下りて戻ることを期待していたのです。ヘブル人への手紙の著者は、アブラハムはイサクを「たとえの中で」取り戻したと言っています。ここでの「たとえ」とは、絵や象徴を意味します。命令から三日後、死んだも同然だった息子が生きて戻ってきたのです。)
16. 場所についての注記 — 補足的な注記であり、聖句が明確に主張していることではない
歴代志下 3:1 シェア↗ ソロモンはエルサレムのモリアの 山 に 主 の 宮 を 建 てることを 始 めた。そこは 父 ダビデに 主 が 現 れられた 所 、すなわちエブスびとオルナンの 打 ち 場 にダビデが 備 えた 所 である。
ソロモンはエルサレムのモリアの 山 に 主 の 宮 を 建 てることを 始 めた.
[諸節を組み合わせたものであり、単一の節がこれを単独で述べているわけではない]
(私自身の考え:創世記22章2節は、神がアブラハムを遣わした場所をモリヤの地と名づけている。歴代志下3章1節は、ソロモンが神殿を建てた場所をエルサレムにあるモリヤ山と名づけている。したがって、イサクが献げられかけた山と、後のすべての神殿での犠牲が献げられた山とは、同じ名を共有している。エルサレムはまた、兵士たちが城壁の外でイエスを十字架につけた同じ都でもある。ただ、聖句が述べていることだけを述べよ。聖句は、ゴルゴタがモリヤと同じ岩であったとは述べていない。聖句が述べているのは、同じ名前、同じ丘の連なり、同じ都であるということだけである。アブラハム自身の言葉は「主の山に、備えあり」であった。アブラハムはこの言葉を未来形で語った。)
17. 苦難のしもべ — 十字架がまだ存在しなかった時代に十字架を描いた章
1. イザヤ書 52:13 シェア↗ 見 よ、わがしもべは 栄 える。 彼 は 高 められ、あげられ、ひじょうに 高 くなる。 (14) 多 くの 人 が 彼 に 驚 いたように―― 彼 の 顔 だちは、そこなわれて 人 と 異 なり、 その 姿 は 人 の 子 と 異 なっていたからである―― (15) 彼 は 多 くの 国民 を 驚 かす。 王 たちは 彼 のゆえに 口 をつむぐ。 それは 彼 らがまだ 伝 えられなかったことを 見 、 まだ 聞 かなかったことを 悟 るからだ。
その顔だちは誰よりも損なわれていた→このように彼は多くの国民に注ぎかけるであろう。
2. イザヤ書 53:1 シェア↗ だれがわれわれの 聞 いたことを 信 じ 得 たか。 主 の 腕 は、だれにあらわれたか。 (2) 彼 は 主 の 前 に 若木 のように、 かわいた 土 から 出 る 根 のように 育 った。 彼 にはわれわれの 見 るべき 姿 がなく、 威厳 もなく、 われわれの 慕 うべき 美 しさもない。
だれがわれわれの 聞 いたことを 信 じ 得 たか? → われわれの 慕 うべき 美 しさもない.
3. イザヤ書 53:3 シェア↗ 彼 は 侮 られて 人 に 捨 てられ、 悲 しみの 人 で、 病 を 知 っていた。 また 顔 をおおって 忌 みきらわれる 者 のように、 彼 は 侮 られた。われわれも 彼 を 尊 ばなかった。
悲 しみの 人 で、 病 を 知 っていた → 彼 は 侮 られた。われわれも 彼 を 尊 ばなかった.
4. イザヤ書 53:4 シェア↗ まことに 彼 はわれわれの 病 を 負 い、 われわれの 悲 しみをになった。 しかるに、われわれは 思 った、 彼 は 打 たれ、 神 にたたかれ、 苦 しめられたのだと。 (5) しかし 彼 はわれわれのとがのために 傷 つけられ、 われわれの 不義 のために 砕 かれたのだ。 彼 はみずから 懲 しめをうけて、 われわれに 平安 を 与 え、 その 打 たれた 傷 によって、 われわれはいやされたのだ。
彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために打たれた。彼の受けた傷によって、われわれはいやされたのである。
5. イザヤ書 53:6 シェア↗ われわれはみな 羊 のように 迷 って、 おのおの 自分 の 道 に 向 かって 行 った。 主 はわれわれすべての 者 の 不義 を、 彼 の 上 におかれた。
われわれはみな 羊 のように 迷 って → 主 はわれわれすべての 者 の 不義 を、 彼 の 上 におかれた.
6. イザヤ書 53:7 シェア↗ 彼 はしえたげられ、 苦 しめられたけれども、 口 を 開 かなかった。 ほふり 場 にひかれて 行 く 小羊 のように、 また 毛 を 切 る 者 の 前 に 黙 っている 羊 のように、 口 を 開 かなかった。
ほふり 場 にひかれて 行 く 小羊 のように → 口 を 開 かなかった.
7. イザヤ書 53:8 シェア↗ 彼 は 暴虐 なさばきによって 取 り 去 られた。 その 代 の 人 のうち、だれが 思 ったであろうか、 彼 はわが 民 のとがのために 打 たれて、 生 けるものの 地 から 断 たれたのだと。
彼は生ける者の地より断たれたり。わが民のとがのために彼は打たれたればなり。
8. イザヤ書 53:9 シェア↗ 彼 は 暴虐 を 行 わず、 その 口 には 偽 りがなかったけれども、 その 墓 は 悪 しき 者 と 共 に 設 けられ、 その 塚 は 悪 をなす 者 と 共 にあった。
彼 は 暴虐 を 行 わず + その 口 には 偽 りがなかったけれども → その 墓 は 悪 しき 者 と 共 に 設 けられ.
9. イザヤ書 53:10 シェア↗ しかも 彼 を 砕 くことは 主 のみ 旨 であり、 主 は 彼 を 悩 まされた。 彼 が 自分 を、とがの 供 え 物 となすとき、 その 子孫 を 見 ることができ、 その 命 をながくすることができる。 かつ 主 のみ 旨 が 彼 の 手 によって 栄 える。
なんじその魂を罪のためのささげ物となす時、彼はその裔を見、そのよわいを長くせん。
10. イザヤ書 53:11 シェア↗ 彼 は 自分 の 魂 の 苦 しみにより 光 を 見 て 満足 する。 義 なるわがしもべはその 知識 によって、 多 くの 人 を 義 とし、また 彼 らの 不義 を 負 う。 (12) それゆえ、わたしは 彼 に 大 いなる 者 と 共 に 物 を 分 かち 取 らせる。 彼 は 強 い 者 と 共 に 獲物 を 分 かち 取 る。 これは 彼 が 死 にいたるまで、 自分 の 魂 をそそぎだし、 とがある 者 と 共 に 数 えられたからである。 しかも 彼 は 多 くの 人 の 罪 を 負 い、 とがある 者 のためにとりなしをした。
彼はその魂を死に至るまで注ぎ出し + 彼は罪びとのひとりに数えられた → 彼は多くの人の罪を負い、罪びとのためにとりなしをした。
(私の個人的な考察:イザヤ書53章9節を読み、続けてイザヤ書53章10節をもう一度、順番通りに読んでいただきたい。前者は、僕が死んで富める者と共に葬られたと述べている。後者は、僕の魂が罪のためのいけにえとされた後、僕はその子孫を見、その日を長くすると述べている。この二つの記述は、死んだままの人物については両立し得ない。復活が実際に起こる七百年も前に、この復活のことがイザヤ書のこの章にすでに記されているのである。)
18. 異なる視点、同じ場面 — 預言者の書と、戦車の中でそれを声に出して読む人
使徒行伝 8:32 シェア↗ 彼 が 読 んでいた 聖書 の 箇所 は、これであった、 「 彼 は、ほふり 場 に 引 かれて 行 く 羊 のように、 また、 黙々 として、 毛 を 刈 る 者 の 前 に 立 つ 小羊 のように、 口 を 開 かない。 (33) 彼 は、いやしめられて、 そのさばきも 行 われなかった。 だれが、 彼 の 子孫 のことを 語 ることができようか、 彼 の 命 が 地上 から 取 り 去 られているからには」。 (34) 宦官 はピリポにむかって 言 った、「お 尋 ねしますが、ここで 預言者 はだれのことを 言 っているのですか。 自分 のことですか、それとも、だれかほかの 人 のことですか」。 (35) そこでピリポは 口 を 開 き、この 聖 句 から 説 き 起 して、イエスのことを 宣 べ 伝 えた。
預言者はこれを誰について語れるや。ピリポはこの聖句より始めて、イエスを彼に伝えたり。
(私の個人的な考え:これは、答えを一度も聞いたことのない人が声に出して尋ねた、正直な質問です。その質問とは、預言者は誰について語っているのか、というものです。答えはピリポの個人的な意見ではありません。ピリポはイザヤ書53章のまさにその箇所から始めました。ピリポはその箇所からイエスを宣べ伝えました。使徒たち自身によるイザヤ書53章の読み方が、私たちのために書き記されています。誰も使徒たちのイザヤ書53章の読み方について推測する必要はありません。)
19. E. インマヌエル──神われらと共に、生まれた子、与えられた子
1. イザヤ書 7:14 シェア↗ それゆえ、 主 はみずから一つのしるしをあなたがたに 与 えられる。 見 よ、おとめがみごもって 男 の 子 を 産 む。その 名 はインマヌエルととなえられる。 原語キー / Strong’s: ⚑ H5959 almah · ⚑ H6005 Immanuwel
それゆえ、 主 はみずから一つのしるしをあなたがたに 与 えられる → 見 よ、おとめがみごもって 男 の 子 を 産 む。その 名 はインマヌエルととなえられる.
2. イザヤ書 9:6 シェア↗ ひとりのみどりごがわれわれのために 生 れた、 ひとりの 男 の 子 がわれわれに 与 えられた。 まつりごとはその 肩 にあり、 その 名 は、「 霊妙 なる 議 士 、 大能 の 神 、 とこしえの 父 、 平和 の 君 」ととなえられる。 (7) そのまつりごとと 平和 とは、 増 し 加 わって 限 りなく、 ダビデの 位 に 座 して、その 国 を 治 め、 今 より 後 、とこしえに 公平 と 正義 とをもって これを 立 て、これを 保 たれる。 万軍 の 主 の 熱心 がこれをなされるのである。 原語キー / Strong’s: ⚑ H6382 pele
ひとりのみどりごがわれらのために生れ、ひとりの男の子がわれらに与えられる → その名は、力ある神、とこしえの父ととなえられる → その政治と平和とは、増し加わって限りなく。
(私個人の考え:イザヤ書9章6節にある二つの動詞の順序に注目してほしい。この二つの動詞は同じ動詞ではない。この順序は偶然ではない。子が生まれた。世継ぎが与えられた。生まれるということは、その子がどのようにしてこの世に来たかを表している。与えられるということは、すでに存在していた御子に起こった出来事を表している。次に、この子に与えられた名前について考えてみよう。イザヤ書9章6節は、この子が全能の神のようであると言っているのではない。イザヤ書9章6節は「その名は、全能の神ととなえられる」と言っている。最初に挙げられている名前、「奇しき者」はペレ(H6382)である。ペレは、士師記13章でマノアが名前を尋ねても得られなかった答えと同じ語根を持つ。イザヤ書9章6節では、その名が与えられている。)
3. イザヤ書 9:2 シェア↗ 暗 やみの 中 に 歩 んでいた 民 は 大 いなる 光 を 見 た。 暗黒 の 地 に 住 んでいた 人々 の 上 に 光 が 照 った。
暗 やみの 中 に 歩 んでいた 民 は 大 いなる 光 を 見 た.
4. ミカ書 5:2 シェア↗ しかしベツレヘム・エフラタよ、 あなたはユダの 氏族 のうちで 小 さい 者 だが、 イスラエルを 治 める 者 があなたのうちから わたしのために 出 る。 その 出 るのは 昔 から、いにしえの 日 からである。
なんじより出でてイスラエルを治むる者あるべし → その出づるところは、いにしえより、永遠の昔よりなり。
(私自身の考察:ミカ書5章2節の一文が、この研究全体の両端を握っている。この支配者は小さな町から出て来る。小さな町から出て来ることは、人が歩いて行ける場所での始まりである。この支配者の出て来ることは、いにしえより、とこしえより行われてきた。とこしえよりの出て来ることには、始まりというものが全くない。ミカはこの両方の真理を同じ一文の中で述べている。ミカはどちらの真理も和らげてはいない。)
20. F. 女の子孫と処女 — 最初の約束とその成就
1. 創世記 3:15 シェア↗ わたしは 恨 みをおく、 おまえと 女 とのあいだに、 おまえのすえと 女 のすえとの 間 に。 彼 はおまえのかしらを 砕 き、 おまえは 彼 のかかとを 砕 くであろう」。
おまえの種と女の種との間に → それは汝の頭を砕き、汝はそのかかとを砕くであろう。
(私の個人的な考え:神は、罪がこの世界に入り込んだ時、園の中で蛇に創世記3:15を語られた。創世記3:15は、聖書全体の中で最初に語られる救い主の約束である。この節が誰の子孫と名指ししているかに注目してほしい。聖書の残りの部分を通して、家系の系図は男性を通してたどられている。例えば、アブラハムの子孫やダビデの子孫である。ここでは、まさに初めのこの一度だけ、名指しされている子孫は「女の」子孫である。また、この節にある二つの傷にも注目してほしい。それらは同じ大きさではない。女の子孫のかかとは砕かれる。蛇の頭は打ち砕かれる。)
2. ガラテヤ人への手紙 4:4 シェア↗ しかし、 時 の 満 ちるに 及 んで、 神 は 御子 を 女 から 生 れさせ、 律法 の 下 に 生 れさせて、おつかわしになった。 (5) それは、 律法 の 下 にある 者 をあがない 出 すため、わたしたちに 子 たる 身分 を 授 けるためであった。
神はその御子を女から生まれさせて遣わされた→律法の下にある者を贖い出すためである。
(私自身の考え:ガラテヤ4章4節は、神が御子を「遣わされた」と述べている。ガラテヤ4章4節はその後、御子が「女から生まれた」と述べている。「遣わす」がその文の中で最初に述べられている。「誕生」はその文の中で二番目に述べられている。この順序には意味がある。ある人がすでにその場所に存在していなければ、その人はその場所から遣わされることはない。)
21. 異なる視点、同じ光景 — 約束されたしるしと、与えられたしるし
イザヤ書 7:14 シェア↗ それゆえ、 主 はみずから一つのしるしをあなたがたに 与 えられる。 見 よ、おとめがみごもって 男 の 子 を 産 む。その 名 はインマヌエルととなえられる。
見 よ、おとめがみごもって 男 の 子 を 産 む。その 名 はインマヌエルととなえられる.
マタイによる福音書 1:18 シェア↗ イエス・キリストの 誕生 の 次第 はこうであった。 母 マリヤはヨセフと 婚約 していたが、まだ 一緒 にならない 前 に、 聖霊 によって 身重 になった。 (19) 夫 ヨセフは 正 しい 人 であったので、 彼女 のことが 公 けになることを 好 まず、ひそかに 離縁 しようと 決心 した。 (20) 彼 がこのことを 思 いめぐらしていたとき、 主 の 使 が 夢 に 現 れて 言 った、「ダビデの 子 ヨセフよ、 心配 しないでマリヤを 妻 として 迎 えるがよい。その 胎内 に 宿 っているものは 聖霊 によるのである。 (21) 彼女 は 男 の 子 を 産 むであろう。その 名 をイエスと 名 づけなさい。 彼 は、おのれの 民 をそのもろもろの 罪 から 救 う 者 となるからである」。 (22) すべてこれらのことが 起 ったのは、 主 が 預言者 によって 言 われたことの 成就 するためである。すなわち、 (23) 「 見 よ、おとめがみごもって 男 の 子 を 産 むであろう。 その 名 はインマヌエルと 呼 ばれるであろう」。 これは、「 神 われらと 共 にいます」という 意味 である。
なんじその名をイエスと名づくべし。この者おのが民をその罪より救い給わん → 彼らはその名をインマヌエルと呼ぶであろう、これを訳せば「神われらと共にいます」という意味である。
(私自身の考察:両方の記事の違いは、その教えにある。イザヤ書7章14節では、「彼女が」その子の名をインマヌエルと呼ぶ、と言っている。マタイによる福音書1章23節では、「彼らが」その子の名をエマヌエルと呼ぶ、と言っている。イザヤの記事では、一人の母が自分の赤ん坊に名をつける。マタイの記事では、すべての人がイエスに名をつける。マタイはまた、読者が推測する必要のないことを行っている。マタイは立ち止まり、マタイによる福音書の本文そのものの中で、読者のためにその名を訳している。どの時代の読者も、エマヌエルという名が何を意味するかを見逃すことはできない。エマヌエルとは、神が私たちと共におられる、という意味である。マタイはまた、イエスの誕生が単にマタイにイザヤの預言を思い出させたとは言っていない。マタイは、これらすべてのことは、イザヤの預言が成就されるために「なされた」のだと言っている。)
1. ルカによる福音書 1:31 シェア↗ 見 よ、あなたはみごもって 男 の 子 を 産 むでしょう。その 子 をイエスと 名 づけなさい。 (32) 彼 は 大 いなる 者 となり、いと 高 き 者 の 子 と、となえられるでしょう。そして、 主 なる 神 は 彼 に 父 ダビデの 王座 をお 与 えになり、 (33) 彼 はとこしえにヤコブの 家 を 支配 し、その 支配 は 限 りなく 続 くでしょう」。 (34) そこでマリヤは 御使 に 言 った、「どうして、そんな 事 があり 得 ましょうか。わたしにはまだ 夫 がありませんのに」。 (35) 御使 が 答 えて 言 った、「 聖霊 があなたに 臨 み、いと 高 き 者 の 力 があなたをおおうでしょう。それゆえに、 生 れ 出 る 子 は 聖 なるものであり、 神 の 子 と、となえられるでしょう。
われ未だ夫を知らぬに、如何でこの事あるべき → なんじより生まるる聖なる者は、神の子と称えられん。
(私の個人的な考え:ルカ1:34にあるマリアの問いは道理にかなった問いであり、人々は今もそれを問い続けている。彼女に与えられた答えは論証ではない。それは神がまさに行おうとしていることの告知である。ルカ1:32で名指しされている位に注目したい。「その父ダビデの位」である。それはイザヤ9:7がその子が座ると告げた同じ位であり、詩篇110篇が記されたのと同じ王家である。)
22. G. 言は肉となった──そして人はいかにして実際に彼を見出すか
1. ヨハネによる福音書 1:1 シェア↗ 初 めに 言 があった。 言 は 神 と 共 にあった。 言 は 神 であった。 (2) この 言 は 初 めに 神 と 共 にあった。 (3) すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 (4) この 言 に 命 があった。そしてこの 命 は 人 の 光 であった。 原語キー / Strong’s: ⚑ G3056 logos
初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった → すべてのものは、この方によって造られた。
(私の個人的な考え:ヨハネ1:1は一行の中に三つの文を提示している。三つの文はすべて必要である。第一の文は「言は初めにあった」である。言、すなわち人としての体を取る前の神の御子を指す称号は、始まりの点を持たなかった。第二の文は「言は神と共にあった」である。言は単に父なる神の別名ではない。なぜなら、ある人格が自分自身と共にあることはできないからである。第三の文は「言は神であった」である。言は神の傍らに立つ劣った存在ではない。三つの文のうちどれか一つでも取り除けば、ヨハネが書いた文とは異なる文になってしまう。)
2. ヨハネによる福音書 1:14 シェア↗ そして 言 は 肉体 となり、わたしたちのうちに 宿 った。わたしたちはその 栄光 を 見 た。それは 父 のひとり 子 としての 栄光 であって、めぐみとまこととに 満 ちていた。 原語キー / Strong’s: ⚑ G4637 skenoo
言は肉体となりて我らの中に宿り給えり + 我らその栄光を見たり → 父の独り子の栄光としての栄光なり。
23. 異なる視点、同じ場面 — 荒野の幕屋と、からだという幕屋
出エジプト記 25:8 シェア↗ また、 彼 らにわたしのために 聖所 を 造 らせなさい。わたしが 彼 らのうちに 住 むためである。
また、 彼 らにわたしのために 聖所 を 造 らせなさい → わたしが 彼 らのうちに 住 むためである.
ヨハネによる福音書 1:14 シェア↗ そして 言 は 肉体 となり、わたしたちのうちに 宿 った。わたしたちはその 栄光 を 見 た。それは 父 のひとり 子 としての 栄光 であって、めぐみとまこととに 満 ちていた。
そして 言 は 肉体 となり + わたしたちのうちに 宿 った.
(私個人の考え:ヨハネがヨハネ1:14で「住まわれた」と訳した語として用いたギリシャ語は、スケーノー(G4637)である。スケーノーとは、テントを張り、そのテントに住むという意味である。古代、神はイスラエルの民に、神が彼らの中に住むことができるようにテントを建てるよう命じられ、彼らは皮、木材、金でそれを造った(出エジプト25:8)。ヨハネ1:14では、同じ絵姿が再び登場するが、そのテントとは人間の体である。荒野にあったそのテントは、ヨハネが描く真理を早くから示す絵姿であり、イエス・キリストの体を指し示すものであった。新約聖書は、そのテントを影として、すなわちイエス・キリストを指し示す絵姿として、その影が指し示していたものが明らかにされた後にのみ、そのように特定している。ヨハネはこれをヨハネ1:14で明確に述べている。)
1. コロサイ人への手紙 1:15 シェア↗ 御子 は、 見 えない 神 のかたちであって、すべての 造 られたものに 先 だって 生 れたかたである。 (16) 万物 は、 天 にあるものも 地 にあるものも、 見 えるものも 見 えないものも、 位 も 主権 も、 支配 も 権威 も、みな 御子 にあって 造 られたからである。これらいっさいのものは、 御子 によって 造 られ、 御子 のために 造 られたのである。 (17) 彼 は 万物 よりも 先 にあり、 万物 は 彼 にあって 成 り 立 っている。
すべての 造 られたものに 先 だって 生 れたかたである + 彼 は 万物 よりも 先 にあり → 万物 は 彼 にあって 成 り 立 っている.
2. コロサイ人への手紙 2:9 シェア↗ キリストにこそ、 満 ちみちているいっさいの 神 の 徳 が、かたちをとって 宿 っており、 (10) そしてあなたがたは、キリストにあって、それに 満 たされているのである。 彼 はすべての 支配 と 権威 とのかしらであり、
彼のうちに神のすべての満ち満ちたものが形をとって宿っている→あなたがたは彼にあって満ち足りている。
24. G5. どのように彼を見出すか — 主はどこを見るべきか教えられた
ヨハネによる福音書 5:39 シェア↗ あなたがたは、 聖書 の 中 に 永遠 の 命 があると 思 って 調 べているが、この 聖書 は、わたしについてあかしをするものである。 (40) しかも、あなたがたは、 命 を 得 るためにわたしのもとにこようともしない。
聖書を調べよ ―― それはわたしについてあかしするものである。
(私の個人的な思い:イエスはヨハネ5:39-40で、当時生きていた人々の中でもほとんど誰よりも聖書を知っていた人々にこう言われた。彼らは聖書を暗唱することができた。イエスは、彼らが記憶していた聖書全体が彼を指し示していること、そしてそれでも彼らは命を得るために彼のもとに来ようとしないことを告げられた。聖書の言葉を知ることは、その言葉が指し示す人物を知ることと同じではない。命を求めて見るべき場所は他にない。イエスは、あなたの感情を探れとは言われなかった。イエスは、聖書を調べなさいと言われたのである。)
1. ルカによる福音書 24:25 シェア↗ そこでイエスが 言 われた、「ああ、 愚 かで 心 のにぶいため、 預言者 たちが 説 いたすべての 事 を 信 じられない 者 たちよ。 (26) キリストは 必 ず、これらの 苦難 を 受 けて、その 栄光 に 入 るはずではなかったのか」。 (27) こう 言 って、モーセやすべての 預言者 からはじめて、 聖書 全体 にわたり、ご 自身 についてしるしてある 事 どもを、 説 きあかされた。
モーセをはじめすべての預言者から始めて → 聖書全体にわたって、自分について書かれていることを彼らに説明された。
2. ルカによる福音書 24:32 シェア↗ 彼 らは 互 に 言 った、「 道々 お 話 しになったとき、また 聖書 を 説 き 明 してくださったとき、お 互 の 心 が 内 に 燃 えたではないか」。
道にて我らと語り、我らに聖書を説き明かしたまへる時、我らの心は内に燃えしならずや。
3. ルカによる福音書 24:44 シェア↗ それから 彼 らに 対 して 言 われた、「わたしが 以前 あなたがたと 一緒 にいた 時分 に 話 して 聞 かせた 言葉 は、こうであった。すなわち、モーセの 律法 と 預言 書 と 詩篇 とに、わたしについて 書 いてあることは、 必 ずことごとく 成就 する」。 (45) そこでイエスは、 聖書 を 悟 らせるために 彼 らの 心 を 開 いて
すべてモーセの律法、預言者たち、および詩篇に、わたしについて録されたる事は、必ず成就すべし → かくて彼らの心を開きて悟らしめ給えり。
(私の個人的な考え:ルカ24:44-45は、この研究全体が問いかけている質問への答えを与えている。この答えは、イエスが墓からよみがえった後、イエス自身の口から語られたものである。イエスは旧約聖書の三つの区分、すなわちモーセの律法、預言者、そして詩篇を挙げられた。この三つの区分を合わせたものが旧約聖書全体である。イエスは旧約聖書全体にご自身についての事柄が含まれていると言われた。イエスは旧約聖書の一部だけにご自身についての事柄が含まれているとは言われなかった。それからイエスは弟子たちのために二つの別々のことを行われた。イエスは弟子たちに聖書を開かれた。イエスは弟子たちの理解を開かれた。人はこの両方を必要とする。人は聖書全体を自分の手に持っていても、なおイエスにその目を開いていただき、聖書の中にイエスを見る必要がある。聖書を読みなさい。イエスに聖書を開いてくださるよう願いなさい。聖書を読み続けなさい。)
4. ヨハネの第一の手紙 1:1 シェア↗ 初 めからあったもの、わたしたちが 聞 いたもの、 目 で 見 たもの、よく 見 て 手 でさわったもの、すなわち、いのちの 言 について―― (2) このいのちが 現 れたので、この 永遠 のいのちをわたしたちは 見 て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに 告 げ 知 らせるのである。この 永遠 のいのちは、 父 と 共 にいましたが、 今 やわたしたちに 現 れたものである―― (3) すなわち、わたしたちが 見 たもの、 聞 いたものを、あなたがたにも 告 げ 知 らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの 交 わりにあずかるようになるためである。わたしたちの 交 わりとは、 父 ならびに 御子 イエス・キリストとの 交 わりのことである。
聞きし所 + 目にて見し所 + つらつら視し所 + 手にて觸りし所 → 父と偕に在りて、われらに顯れたる永遠の生命
(私自身の考え:ヨハネはヨハネの第一の書1章1節で、意図的に感覚を並べています。聞いたもの、見たもの、じっと見つめたもの、そして手で触ったもの。ヨハネは感情や観念を描写しているのではありません。ヨハネは共に食事をした一人の人物について描写しているのです。同じ文の中で、ヨハネはその人物を「父と共にあった永遠のいのち」と呼んでいます。使徒たちが手で触った人物は、はじめの前から父と共におられた、その同じ人物なのです。それがヨハネの第一の書1章1-3節全体の主張です。ヨハネはこの主張についての理論家ではなく、証人であると述べているのです。)
25. H. なぜその死はそうでなければならなかったのか — 神への架け橋
26. H1. 問題を明確に述べる
イザヤ書 59:2 シェア↗ ただ、あなたがたの 不義 が あなたがたと、あなたがたの 神 との 間 を 隔 てたのだ。 またあなたがたの 罪 が 主 の 顔 をおおったために、お 聞 きにならないのだ。
ただ、あなたがたの 不義 が あなたがたと、あなたがたの 神 との 間 を 隔 てたのだ.
ローマ人への手紙 3:23 シェア↗ すなわち、すべての 人 は 罪 を 犯 したため、 神 の 栄光 を 受 けられなくなっており、
すなわち、すべての 人 は 罪 を 犯 したため、 神 の 栄光 を 受 けられなくなっており.
27. H2. なぜ血なのか、もっと簡単な方法ではなかったのか
ヘブル人への手紙 9:22 シェア↗ こうして、ほとんどすべての 物 が、 律法 に 従 い、 血 によってきよめられたのである。 血 を 流 すことなしには、 罪 のゆるしはあり 得 ない。 原語キー / Strong’s: ⚑ G859 aphesis
血 を 流 すことなしには、 罪 のゆるしはあり 得 ない.
レビ記 17:11 シェア↗ 肉 の 命 は 血 にあるからである。あなたがたの 魂 のために 祭壇 の 上 で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに 与 えた。 血 は 命 であるゆえに、あがなうことができるからである。
肉 の 命 は 血 にあるからである → 血 は 命 であるゆえに、あがなうことができるからである.
ヘブル人への手紙 10:4 シェア↗ なぜなら、 雄 牛 ややぎなどの 血 は、 罪 を 除 き 去 ることができないからである。
なぜなら、 雄 牛 ややぎなどの 血 は、 罪 を 除 き 去 ることができないからである.
(私の個人的な考え:これら三つの聖句を並べて置くと、古代の犠牲制度全体が自ら説明される。命は血の中にある。罪は命を要する。古代においては、動物の犠牲が幾百年にもわたり、日ごとに贖い(罪の一時的な覆いであり、神の前における人の立場を回復するもの)を提供していた。ヘブル人への書は、動物の犠牲が罪を決して取り除くことができなかったと明言している。それでは、それらすべての犠牲は何のためだったのか。それらは罪の負債を目に見える形で未払いのままにしておいた。それらは、命が負われているという長く繰り返される日々の思い出であり、罪の負債を完全に払うことができるただ一つの死が来るまで、その思い出を保ち続けていたのである。)
28. H3. 彼はどこまで低く下られたか
ピリピ人への手紙 2:5 シェア↗ キリスト・イエスにあっていだいているのと 同 じ 思 いを、あなたがたの 間 でも 互 に 生 かしなさい。 (6) キリストは、 神 のかたちであられたが、 神 と 等 しくあることを 固守 すべき 事 とは 思 わず、 (7) かえって、おのれをむなしうして 僕 のかたちをとり、 人間 の 姿 になられた。その 有様 は 人 と 異 ならず、 (8) おのれを 低 くして、 死 に 至 るまで、しかも 十字架 の 死 に 至 るまで 従順 であられた。
神 のかたちであられたが → おのれをむなしうして 僕 のかたちをとり → しかも 十字架 の 死 に 至 るまで 従順 であられた.
(私個人の考え:ピリピ人への手紙2章6-8節にある下降の順序に注目してほしい。イエスは神の形であられた。イエスは名声を空しくされた。イエスはしもべの形をとられた。イエスは人間の姿をとられた。イエスはへりくだられた。イエスは従順になられた。イエスは死なれた。パウロはさらに、文としては厳密には必要のなかった二つの言葉を付け加えた。「しかも十字架の死にまで」。イエスが死なれたと単に述べるだけでは、パウロにとって十分ではなかった。イエスの死の具体的な様態こそが、パウロの論点の一部なのである。)
29. H4. 実際に彼が払った代価 — 前もって語られ、そして後にまた語られた
イザヤ書 50:6 シェア↗ わたしを 打 つ 者 に、わたしの 背 をまかせ、 わたしのひげを 抜 く 者 に、わたしのほおをまかせ、 恥 とつばきとを 避 けるために、 顔 をかくさなかった。
わたしを 打 つ 者 に、わたしの 背 をまかせ → 恥 とつばきとを 避 けるために、 顔 をかくさなかった.
詩篇 22:16 シェア↗ まことに、 犬 はわたしをめぐり、 悪 を 行 う 者 の 群 れがわたしを 囲 んで、 わたしの 手 と 足 を 刺 し 貫 いた。 (17) わたしは 自分 の 骨 をことごとく 数 えることができる。 彼 らは 目 をとめて、わたしを 見 る。 (18) 彼 らは 互 にわたしの 衣服 を 分 け、 わたしの 着物 をくじ 引 にする。
彼らはわが手とわが足とを刺し貫けり。彼らはわが衣を分かち、わが衣服のことにて籤を引けり。
マタイによる福音書 27:35 シェア↗ 彼 らはイエスを 十字架 につけてから、くじを 引 いて、その 着物 を 分 け、
彼らは彼を十字架につけ、籤を引きてその衣を分けたり → これは成就せんためなり。
ヨハネによる福音書 19:34 シェア↗ しかし、ひとりの 兵卒 がやりでそのわきを 突 きさすと、すぐ 血 と 水 とが 流 れ 出 た。
槍が彼のわき腹を刺した ⇒ すると、ただちに血と水が出て来た。
(私自身の考察:ダビデは詩篇22篇で、刺し貫かれた手と足について書いた。ダビデは詩篇22篇で、兵士たちが衣服を分け合うことについて書いた。ダビデがこれを書いたのは、イスラエルの誰かが十字架刑を目にする千年も前のことだった。ダビデは自分自身に起こった出来事を描写していたのではない。マタイはそれから何世紀も後、イエスの十字架刑が起こった後に書いた。マタイは、兵士たちが詩篇22篇に描かれた通りのことをしたと記している。マタイは兵士たちがそうした理由を述べている、「これは成就するためであった」と。この二つの記述を合わせて読んでほしい。ダビデは時を先取りして自分の記述を書いたのであり、十字架刑が起こることを知る術は全くなかった。マタイは十字架刑を振り返って自分の記述を書いたのであり、十字架刑が起こったことを否定する術は全くなかった。)
30. H5. その死は何のためであったか — 悲劇ではなく、橋である
ローマ人への手紙 5:8 シェア↗ しかし、まだ 罪人 であった 時 、わたしたちのためにキリストが 死 んで 下 さったことによって、 神 はわたしたちに 対 する 愛 を 示 されたのである。 (9) わたしたちは、キリストの 血 によって 今 は 義 とされているのだから、なおさら、 彼 によって 神 の 怒 りから 救 われるであろう。 (10) もし、わたしたちが 敵 であった 時 でさえ、 御子 の 死 によって 神 との 和解 を 受 けたとすれば、 和解 を 受 けている 今 は、なおさら、 彼 のいのちによって 救 われるであろう。 原語キー / Strong’s: ⚑ G2644 katallasso
我らなお罪人たりし時、キリストは我らのために死に給えり。我らはその子の死によりて神と和らげり。
コリント人への第二の手紙 5:18 シェア↗ しかし、すべてこれらの 事 は、 神 から 出 ている。 神 はキリストによって、わたしたちをご 自分 に 和解 させ、かつ 和解 の 務 をわたしたちに 授 けて 下 さった。 (19) すなわち、 神 はキリストにおいて 世 をご 自分 に 和解 させ、その 罪過 の 責任 をこれに 負 わせることをしないで、わたしたちに 和解 の 福音 をゆだねられたのである。 (20) 神 がわたしたちをとおして 勧 めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの 使者 なのである。そこで、キリストに 代 って 願 う、 神 の 和解 を 受 けなさい。 (21) 神 はわたしたちの 罪 のために、 罪 を 知 らないかたを 罪 とされた。それは、わたしたちが、 彼 にあって 神 の 義 となるためなのである。 原語キー / Strong’s: ⚑ G2643 katallage
神はキリストにあって世をご自分に和解させられた → 罪を知らなかった彼を、私たちのために罪とされた。
テモテへの第一の手紙 2:5 シェア↗ 神 は 唯一 であり、 神 と 人 との 間 の 仲保者 もただひとりであって、それは 人 なるキリスト・イエスである。 (6) 彼 は、すべての 人 のあがないとしてご 自身 をささげられたが、それは、 定 められた 時 になされたあかしにほかならない。
唯一の神+神と人との間の唯一の仲保者、人なるキリスト・イエス。
(私自身の考え:仲介者(分かれた二者の間に立ち、両者を再び結び合わせる者)は、両方の側に完全に属していなければならず、そうでなければ仲介者として働くことはできない。テモテ前書2章5節が仲介者について何と言っているかを見てほしい。「人なるキリスト・イエス」とある。彼は人でなければならない、そうでなければ人間が立つ場所に立ち、人間としての死を死ぬことができない。次に、コリント後書5章19節がその死のうちにあった真実について何と言っているかを見てほしい。「神はキリストにありて」とある。そして彼は神でなければならない、そうでなければ彼の死は単にもう一人の人間が死ぬに過ぎず、誰のためにも救い(罪とその罰からの救出)をもたらさない。だからこそ、「イエスとは誰か」という問いは、学者だけのための脇道の問題ではない。救いの教理全体が、この問いにかかっているのである。)
31. H6. 竿の上の蛇 — 彼がご自身に当てはめた古い型
民数記 21:8 シェア↗ そこで 主 はモーセに 言 われた、「 火 のへびを 造 って、それをさおの 上 に 掛 けなさい。すべてのかまれた 者 が 仰 いで、それを 見 るならば 生 きるであろう」。 (9) モーセは 青銅 で一つのへびを 造 り、それをさおの 上 に 掛 けて 置 いた。すべてへびにかまれた 者 はその 青銅 のへびを 仰 いで 見 て 生 きた。
すべてかまれた者は、それを仰ぎ見るならば生きるであろう。
32. 異なる視点、同じ場面 — 荒野の竿と、丘の上の十字架
ヨハネによる福音書 3:14 シェア↗ そして、ちょうどモーセが 荒野 でへびを 上 げたように、 人 の 子 もまた 上 げられなければならない。 (15) それは 彼 を 信 じる 者 が、すべて 永遠 の 命 を 得 るためである」。 (16) 神 はそのひとり 子 を 賜 わったほどに、この 世 を 愛 して 下 さった。それは 御子 を 信 じる 者 がひとりも 滅 びないで、 永遠 の 命 を 得 るためである。 (17) 神 が 御子 を 世 につかわされたのは、 世 をさばくためではなく、 御子 によって、この 世 が 救 われるためである。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が滅びることのないためである。
(私個人の思い:民数記21章とヨハネの福音書3章とのこの結びつきは、この研究が考え出したものではありません。イエスご自身が、ご自分の正体について、この結びつきを直接、声に出してはっきりと述べられました。荒野で死にゆく人々は、自分を正すようにとも、勇敢であるようにとも、治療を得るために何かをするようにとも言われませんでした。彼らはただ、神が旗竿の上に掲げられたものを「見よ」と言われたのです。見た者たちは生きました。
さて、この二つの場面を並べて心に留め、その奇妙な点に気づいてください。旗竿の上に掲げられた青銅の蛇は、それを見つめる人々を死に至らせていたもの、まさにその形をしていました。パウロは十字架について、同様に奇妙な真理を述べています。イエスは罪を知らなかったにもかかわらず、私たちのために罪と「された」というのです(コリント人への後の書5章21節)。癒しは、呪いと同じ形で掲げられたのです。)
33. 父ご自身が御子を「神」また「主」と呼んでおられる
1. ヘブル人への手紙 1:1 シェア↗ 神 は、むかしは、 預言者 たちにより、いろいろな 時 に、いろいろな 方法 で、 先祖 たちに 語 られたが、 (2) この 終 りの 時 には、 御子 によって、わたしたちに 語 られたのである。 神 は 御子 を 万物 の 相続者 と 定 め、また、 御子 によって、もろもろの 世界 を 造 られた。 (3) 御子 は 神 の 栄光 の 輝 きであり、 神 の 本質 の 真 の 姿 であって、その 力 ある 言葉 をもって 万物 を 保 っておられる。そして 罪 のきよめのわざをなし 終 えてから、いと 高 き 所 にいます 大能者 の 右 に、 座 につかれたのである。
神は御子によって私たちに語られた。また御子によって世界を造られた。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の真の姿である。
2. ヘブル人への手紙 1:5 シェア↗ いったい、 神 は 御使 たちのだれに 対 して、 「あなたこそは、わたしの 子 。 きょう、わたしはあなたを 生 んだ」 と 言 い、さらにまた、 「わたしは 彼 の 父 となり、 彼 はわたしの 子 となるであろう」 と 言 われたことがあるか。 (6) さらにまた、 神 は、その 長子 を 世界 に 導 き 入 れるに 当 って、 「 神 の 御使 たちはことごとく、 彼 を 拝 すべきである」 と 言 われた。 原語キー / Strong’s: ⚑ G4416 prototokos
いったい、 神 は 御使 たちのだれに 対 して、 「あなたこそは、わたしの 子 。 きょう? → 彼 を 拝 すべきである」 と 言 われた.
(私の個人的な考え:ヘブル人への手紙の第一章全体は、一つの長い論証を展開している。その論証とは、御子は天使ではなく、これまでも決して天使ではなかったということである。この点は、「主の使い」と呼ばれる人物について多くのページを割いて学んできたばかりの研究において、注目に値する。ヘブル語のマラクという言葉は、使いの務めを意味する。神ご自身の御子は、旧約聖書のある時点でその務めを果たされた。しかし、ヘブル人への手紙の著者は、誰にも御子を被造物である天使の中に分類させようとはしない。天使たちは御子を礼拝するようにと命じられている。)
3. ヘブル人への手紙 1:8 シェア↗ 御子 については、 「 神 よ、あなたの 御座 は、 世々 限 りなく 続 き、 あなたの 支配 のつえは、 公平 のつえである。 (9) あなたは 義 を 愛 し、 不法 を 憎 まれた。 それゆえに、 神 、あなたの 神 は、 喜 びのあぶらを、 あなたの 友 に 注 ぐよりも 多 く、あなたに 注 がれた」 と 言 い、 (10) さらに、 「 主 よ、あなたは 初 めに、 地 の 基 をおすえになった。 もろもろの 天 も、み 手 のわざである。 (11) これらのものは 滅 びてしまうが、 あなたは、いつまでもいますかたである。 すべてのものは 衣 のように 古 び、 (12) それらをあなたは、 外套 のように 巻 かれる。 これらのものは、 衣 のように 変 るが、 あなたは、いつも 変 ることがなく、 あなたのよわいは、 尽 きることがない」 とも 言 われている。
しかし御子については、「神よ、あなたの御座は世々限りなく続く」と言われる。また、「主よ、あなたは初めに地の基を据えられた」と言われる。
(私個人の考え:ヘブル人への手紙1章8節の最初の五つの言葉をもう一度読んでみてください。「されど御子については言ひ給ふ」。これはヘブル人への手紙の著者がイエスについて述べた意見ではありません。これは父なる神が御子に直接語りかけておられることを記録しているのです。父は御子を「神よ」と呼び、次に御子を「主よ」と呼び、そして地と天を造られたことを御子に帰しておられます。もし御子が聖書の中で決して神と呼ばれていないと主張したい人がいるなら、その人は父が御子を神と呼んでおられるこの聖句に向き合わなければなりません。)
34. 異なる視点、同じ場面 — 王のために書かれた歌と、父がその御子に引用された言葉
詩篇 45:6 シェア↗ 神 から 賜 わったあなたの 位 は 永遠 にかぎりなく 続 き、 あなたの 王 のつえは 公平 のつえである。 (7) あなたは 義 を 愛 し、 悪 を 憎 む。 このゆえに 神 、あなたの 神 は 喜 びの 油 を あなたのともがらにまさって、あなたに 注 がれた。
神 から 賜 わったあなたの 位 は 永遠 にかぎりなく 続 き → あなたの 神 は 喜 びの 油 を あなたのともがらにまさって、あなたに 注 がれた.
詩篇 102:25 シェア↗ あなたはいにしえ、 地 の 基 をすえられました。 天 もまたあなたのみ 手 のわざです。 (26) これらは 滅 びるでしょう。 しかしあなたは 長 らえられます。 これらはみな 衣 のように 古 びるでしょう。 あなたがこれらを 上着 のように 替 えられると、 これらは 過 ぎ 去 ります。 (27) しかしあなたは 変 ることなく、 あなたのよわいは 終 ることがありません。
あなたはいにしえ、 地 の 基 をすえられました → しかしあなたは 変 ることなく、 あなたのよわいは 終 ることがありません.
(私の個人的な考え:ここは、二つの箇所を並べて読むことが本当に意味を持つ箇所です。詩篇45篇は婚礼の歌です。詩篇102篇は苦難の中にある人の祈りです。詩篇102篇では、その言葉は世界を造られたイスラエルの神、主に向けて語られています。どちらの詩篇もベツレヘムでのイエスの誕生の何世紀も前に書かれました。ヘブル人への手紙1章は両方の詩篇を引用しています。ヘブル人への手紙1章は両方の詩篇を父なる神の言葉として提示しています。ヘブル人への手紙1章は両方の詩篇を御子に当てはめています。元の詩篇とヘブル人への手紙1章の引用との間にある言葉遣いの小さな違いに注目してください。聖書はこれらの小さな違いを隠していませんし、この study もそれらを隠しません。詩篇とヘブル人への手紙1章との間で変わらないのは、その言葉が誰について語られているかということです。)
35. J. 主はわが主に言われた — 論争を終わらせた聖句
1. 詩篇 110:1 シェア↗ 主 はわが 主 に 言 われる、 「わたしがあなたのもろもろの 敵 を あなたの 足 台 とするまで、わたしの 右 に 座 せよ」と。 (2) 主 はあなたの 力 あるつえをシオンから 出 される。 あなたはもろもろの 敵 のなかで 治 めよ。 原語キー / Strong’s: ⚑ H3068 Yehovah · ⚑ H113 adown
主 はわが 主 に 言 われる、 「わたしがあなたのもろもろの 敵 を あなたの 足 台 とするまで → わたしの 右 に 座 せよ」と.
(私自身の思い:詩篇110篇1節のこの一行は、一読しただけでは分からないほど多くの意味を含んでいます。英語では、両方の語とも「Lord」と印刷されています。その違いを示す唯一の手がかりは、大文字表記です。最初の語は大文字で、LORDと印刷されています。二番目の語は大文字では印刷されていません。この英語の下には、実は二つの異なるヘブライ語があります。最初のヘブライ語は、神の契約の名であるヤホバ(H3068)です。欽定訳(KJV)では、大文字表記は常に、その背後にあるヘブライ語がヤホバであることを意味します。二番目のヘブライ語はアドン(H113)であり、主人や支配者を意味する語です。ここで使われているアドンの形は「わが主」と読まれます。この詩篇を記したダビデは、神が、ダビデ自身が「わが主」と呼ぶある人物に語りかけておられることを記録しています。ここで率直な問いを考えてみましょう。ダビデはイスラエルの王でした。彼の主とは誰だったのでしょうか。この答えは、神がキリストを、後の世代においてダビデ自身の家系から出すと約束されたことを思い出すと、さらに奇妙に思えてきます。人は普通、自分のひ孫を「わが主」とは呼ばないものです。)
36. J2. 彼は自らそれについて彼らに尋ねられたが、誰も答えることができなかった
マタイによる福音書 22:41 シェア↗ パリサイ 人 たちが 集 まっていたとき、イエスは 彼 らにお 尋 ねになった、 (42) 「あなたがたはキリストをどう 思 うか。だれの 子 なのか」。 彼 らは「ダビデの 子 です」と 答 えた。 (43) イエスは 言 われた、「それではどうして、ダビデが 御霊 に 感 じてキリストを 主 と 呼 んでいるのか。 (44) すなわち 『 主 はわが 主 に 仰 せになった、 あなたの 敵 をあなたの 足 もとに 置 くときまでは、 わたしの 右 に 座 していなさい』。 (45) このように、ダビデ 自身 がキリストを 主 と 呼 んでいるなら、キリストはどうしてダビデの 子 であろうか」。 (46) イエスにひと 言 でも 答 えうる 者 は、なかったし、その 日 からもはや、 進 んでイエスに 質問 する 者 も、いなくなった。
このように、ダビデが彼を主と呼んでいるなら、どうして彼はダビデの子であろうか → ひと言もこたえ得る者がなかった。
(私個人の考え:イエスはマタイ22:41-46で、パリサイ人たちにご自分の問いへの答えをお告げにならなかった。彼はそれを問い、答えられないままにしておかれた。それは今なお答えられておらず、それでもなお、ふさわしい答えはただ一つしかない。キリストは肉によればダビデの子であり、ダビデが生まれる前の彼の存在によれば、ダビデの主なのである。)
37. J3. ペテロは教会が始まった日に同じ聖句を用いた
使徒行伝 2:32 シェア↗ このイエスを、 神 はよみがえらせた。そして、わたしたちは 皆 その 証人 なのである。 (33) それで、イエスは 神 の 右 に 上 げられ、 父 から 約束 の 聖霊 を 受 けて、それをわたしたちに 注 がれたのである。このことは、あなたがたが 現 に 見聞 きしているとおりである。 (34) ダビデが 天 に 上 ったのではない。 彼 自身 こう 言 っている、 『 主 はわが 主 に 仰 せになった、 (35) あなたの 敵 をあなたの 足 台 にするまでは、 わたしの 右 に 座 していなさい』。 (36) だから、イスラエルの 全 家 は、この 事 をしかと 知 っておくがよい。あなたがたが 十字架 につけたこのイエスを、 神 は、 主 またキリストとしてお 立 てになったのである」。
ダビデは天に上ったのではない →神は、あなたがたが十字架につけたこのイエスを、主またキリストとされたのである。
(私の個人的な考察:使徒行伝2章29-36節におけるペテロの論証は短い。ペテロの論証には何の巧妙さも必要ない。ダビデは、ある人が神の右に座ることについて書いた。ダビデ自身は神の右に座るために上って行ったことはない。ダビデの墓を見に行くことができる、とペテロは数節前で語っている。それゆえ、この詩篇はダビデについてのものではなかった。ペテロは続けて、この詩篇が指し示していた人物の名を挙げる。ペテロは何の和らげもなく、この人物の名を挙げる。「あなたがたが十字架につけた、あのイエスを」。ペテロはこの人物を「主またキリスト」と呼んでいる。)
38. J4. 同じ詩篇がもう一つのことを述べている — そしてヘブル人への書はそれに基づいて一つの議論全体を築いている
詩篇 110:4 シェア↗ 主 は 誓 いを 立 てて、み 心 を 変 えられることはない、 「あなたはメルキゼデクの 位 にしたがって とこしえに 祭司 である」。
主 は 誓 いを 立 てて、み 心 を 変 えられることはない → 「あなたはメルキゼデクの 位 にしたがって とこしえに 祭司 である」.
ヘブル人への手紙 5:5 シェア↗ 同様 に、キリストもまた、 大祭司 の 栄誉 を 自分 で 得 たのではなく、 「あなたこそは、わたしの 子 。 きょう、わたしはあなたを 生 んだ」 と 言 われたかたから、お 受 けになったのである。 (6) また、ほかの 箇所 でこう 言 われている、 「あなたこそは、 永遠 に、 メルキゼデクに 等 しい 祭司 である」。
同様 に、キリストもまた、 大祭司 の 栄誉 を 自分 で 得 たのではなく、 「あなたこそは → 「あなたこそは、 永遠 に、 メルキゼデクに 等 しい 祭司 である」.
ヘブル人への手紙 7:3 シェア↗ 彼 には 父 がなく、 母 がなく、 系図 がなく、 生涯 の 初 めもなく、 生命 の 終 りもなく、 神 の 子 のようであって、いつまでも 祭司 なのである。
生涯 の 初 めもなく、 生命 の 終 りもなく → いつまでも 祭司 なのである.
ヘブル人への手紙 7:24 シェア↗ しかし 彼 は、 永遠 にいますかたであるので、 変 らない 祭司 の 務 を 持 ちつづけておられるのである。 (25) そこでまた、 彼 は、いつも 生 きていて 彼 らのためにとりなしておられるので、 彼 によって 神 に 来 る 人々 を、いつも 救 うことができるのである。
彼は永遠に存へ、易らざる祭司の職を保ちたまう → 彼は己によりて神に来る者を完全に救うことを得たまう。
(私の個人的な考え:一つの短い詩篇の中に非常に多くのことが含まれている。詩篇110篇は、ダビデが自分の主と呼ぶ方について、神の右の座に着いていると述べている。詩篇110篇は、シオンから治める王について述べている。詩篇110篇は、イスラエルの祭司職よりも古い位に属する、永遠の祭司について述べており、神はこの誓いを取り消さないと誓われた。古代イスラエルにおいて、律法は王の職と祭司の職を分けて保っていた。その律法のもとでは、一人の人が両方の職を持つことは許されなかった。詩篇110篇は、両方の職を一人の人物に与えている。ヘブル人への手紙は、その人物が誰であるかを説明するために数章を割いている。)
39. K. 墓からよみがえり — そしてあなたの内に生きる
40. K1. その事実そのものと、それがどのように伝えられたか
コリント人への第一の手紙 15:3 シェア↗ わたしが 最 も 大事 なこととしてあなたがたに 伝 えたのは、わたし 自身 も 受 けたことであった。すなわちキリストが、 聖書 に 書 いてあるとおり、わたしたちの 罪 のために 死 んだこと、 (4) そして 葬 られたこと、 聖書 に 書 いてあるとおり、三 日 目 によみがえったこと、
キリストは聖書に応じて我らの罪のために死に、そして葬られ、三日目によみがえり給えり。
コリント人への第一の手紙 15:20 シェア↗ しかし 事実 、キリストは 眠 っている 者 の 初穂 として、 死人 の 中 からよみがえったのである。
キリストは死者の中からよみがえり、眠っている者たちの初穂となられた。
41. K2. 復活が彼について証明したこと
ローマ人への手紙 1:3 シェア↗ 御子 に 関 するものである。 御子 は、 肉 によればダビデの 子孫 から 生 れ、 (4) 聖 なる 霊 によれば、 死人 からの 復活 により、 御 力 をもって 神 の 御子 と 定 められた。これがわたしたちの 主 イエス・キリストである。
肉によれば、ダビデの裔より生れ → 死人の中よりの復活により、大能をもて神の子と定められ給えり。
(私個人の考え:パウロはローマ人への手紙1章3-4節において、再び答えの両方の半分を順序立てて一つの文の中に置いている。イエスは肉によればダビデの家系から来られた。イエスは墓から出ることによって、力をもって神の子と宣言された。どんな人でも自分は神の子であると主張することができる。しかし、死者の中からよみがえることによってその主張が証明されたのは、イエスただひとりだけである。)
42. K3. 旧約聖書が先に語った
詩篇 16:10 シェア↗ あなたはわたしを 陰府 に 捨 ておかれず、 あなたの 聖者 に 墓 を 見 させられないからである。 (11) あなたはいのちの 道 をわたしに 示 される。 あなたの 前 には 満 ちあふれる 喜 びがあり、 あなたの 右 には、とこしえにもろもろの 楽 しみがある。
汝わが魂を黄泉に棄て置きたまわじ → 汝の聖者を朽ち果てしめたまわじ。
使徒行伝 2:29 シェア↗ 兄弟 たちよ、 族長 ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって 大胆 に 言 うことができる。 彼 は 死 んで 葬 られ、 現 にその 墓 が 今日 に 至 るまで、わたしたちの 間 に 残 っている。 (30) 彼 は 預言者 であって、『その 子孫 のひとりを 王位 につかせよう』と、 神 が 堅 く 彼 に 誓 われたことを 認 めていたので、 (31) キリストの 復活 をあらかじめ 知 って、『 彼 は 黄泉 に 捨 ておかれることがなく、またその 肉体 が 朽 ち 果 てることもない』と 語 ったのである。
ダビデは死んで葬られた → 彼はこれを見越して、キリストの復活について語った。
43. K4. そして今 — 彼は救われた人々の中に生きている
ローマ人への手紙 8:11 シェア↗ もし、イエスを 死人 の 中 からよみがえらせたかたの 御霊 が、あなたがたの 内 に 宿 っているなら、キリスト・イエスを 死人 の 中 からよみがえらせたかたは、あなたがたの 内 に 宿 っている 御霊 によって、あなたがたの 死 ぬべきからだをも、 生 かしてくださるであろう。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたがたの中に住んでおられるなら → あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる。
ガラテヤ人への手紙 2:20 シェア↗ 生 きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに 生 きておられるのである。しかし、わたしがいま 肉 にあって 生 きているのは、わたしを 愛 し、わたしのためにご 自身 をささげられた 神 の 御子 を 信 じる 信仰 によって、 生 きているのである。
わたしはキリストと共に十字架につけられた → もはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられる。
コロサイ人への手紙 1:27 シェア↗ 神 は 彼 らに、 異邦人 の 受 くべきこの 奥義 が、いかに 栄光 に 富 んだものであるかを、 知 らせようとされたのである。この 奥義 は、あなたがたのうちにいますキリストであり、 栄光 の 望 みである。 原語キー / Strong’s: ⚑ G3466 musterion
この奥義 = あなたの内におられるキリスト、栄光の望み。
ヨハネによる福音書 14:23 シェア↗ イエスは 彼 に 答 えて 言 われた、「もしだれでもわたしを 愛 するならば、わたしの 言葉 を 守 るであろう。そして、わたしの 父 はその 人 を 愛 し、また、わたしたちはその 人 のところに 行 って、その 人 と 一緒 に 住 むであろう。
人もし我を愛せば我が言を守らん → われらその許に来りて住処を為さん。
(私個人の考え:この研究の全体の流れを結論まで追ってみてください。イエスは万物が造られる前に父と共におられました。イエスは旧約聖書の中で人々に現れ、その人々は生き延びました。イエスは小さな町で女から生まれました。イエスは町の外、丘の上で、木にかけられて殺されました。イエスは墓から出て来られました。聖書は今、イエスが人々の内に生きておられると言っています。この結論こそ、この研究がずっと向かっていた到達点です。この研究の目的は、イエスが誰であるかについての議論に勝つことでは決してありませんでした。この研究の要点は、これらすべてである方が、あなたの内に住みたいと願っておられるということです。ヨハネ14:23にも注目してください。「わたしたちはその人のところに来て」とあります。創世記1:26で聖書の冒頭に現れた複数形の声が、ここにもなお存在しています。)
44. 彼は再び来られる — そして永遠に続く選択
45. L1. 彼は来られる、すべての目が彼を見る
使徒行伝 1:9 シェア↗ こう 言 い 終 ると、イエスは 彼 らの 見 ている 前 で 天 に 上 げられ、 雲 に 迎 えられて、その 姿 が 見 えなくなった。 (10) イエスの 上 って 行 かれるとき、 彼 らが 天 を 見 つめていると、 見 よ、 白 い 衣 を 着 たふたりの 人 が、 彼 らのそばに 立 っていて (11) 言 った、「ガリラヤの 人 たちよ、なぜ 天 を 仰 いで 立 っているのか。あなたがたを 離 れて 天 に 上 げられたこのイエスは、 天 に 上 って 行 かれるのをあなたがたが 見 たのと 同 じ 有様 で、またおいでになるであろう」。
あなたがたを 離 れて 天 に 上 げられたこのイエスは、 天 に 上 って 行 かれるのをあなたがたが 見 たのと 同 じ 有様 で、またおいでになるであろう」.
ヨハネの黙示録 1:7 シェア↗ 見 よ、 彼 は、 雲 に 乗 ってこられる。すべての 人 の 目 、ことに、 彼 を 刺 しとおした 者 たちは、 彼 を 仰 ぎ 見 るであろう。また 地上 の 諸 族 はみな、 彼 のゆえに 胸 を 打 って 嘆 くであろう。しかり、アァメン。
すべての目は彼を見る + 彼を刺した者たちも。
1. テサロニケ人への第二の手紙 1:7 シェア↗ それは、 主 イエスが 炎 の 中 で 力 ある 天使 たちを 率 いて 天 から 現 れる 時 に 実現 する。 (8) その 時 、 主 は 神 を 認 めない 者 たちや、わたしたちの 主 イエスの 福音 に 聞 き 従 わない 者 たちに 報復 し、 (9) そして、 彼 らは 主 のみ 顔 とその 力 の 栄光 から 退 けられて、 永遠 の 滅 びに 至 る 刑罰 を 受 けるであろう。 (10) その 日 に、イエスは 下 ってこられ、 聖徒 たちの 中 であがめられ、すべて 信 じる 者 たちの 間 で 驚嘆 されるであろう――わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって 信 じられているのである。 原語キー / Strong’s: ⚑ G1557 ekdikesis
燃える火の中に、神を知らない者、また福音に従わない者に報復をなし、その日主が聖徒の中にあがめられ、栄光を受けられるとき。
(私自身の思い:テサロニケ人への第二の手紙1章8節をゆっくり読んでみる。テサロニケ人への第二の手紙1章8節は、一つの集団ではなく二つの集団を挙げている。第一の集団は神を知らない。第二の集団は福音に従わない。知ることと従うことが、同じ節の中で一緒に挙げられている。同じ文の一部であるテサロニケ人への第二の手紙1章10節にも注目してほしい。ある集団にとっては火であるイエスの同じ来臨が、別の集団にとっては栄光である。これは一つの単一の出来事である。その出来事のどちら側に人が立つかは、後にではなく、今決まるのである。)
2. ヨハネの黙示録 19:11 シェア↗ またわたしが 見 ていると、 天 が 開 かれ、 見 よ、そこに 白 い 馬 がいた。それに 乗 っているかたは、「 忠実 で 真実 な 者 」と 呼 ばれ、 義 によってさばき、また、 戦 うかたである。 (12) その 目 は 燃 える 炎 であり、その 頭 には 多 くの 冠 があった。また、 彼 以外 にはだれも 知 らない 名 がその 身 にしるされていた。 (13) 彼 は 血染 めの 衣 をまとい、その 名 は「 神 の 言 」と 呼 ばれた。
之に乗りたまふ者は忠實また眞と呼ばれ → その名は神の言と呼ばれたり。
ヨハネの黙示録 19:16 シェア↗ その 着物 にも、そのももにも、「 王 の 王 、 主 の 主 」という 名 がしるされていた。
主 の 主 」という 名 がしるされていた.
(私自身の思いですが:ヨハネの黙示録19章12節にある小さな一行に注目してください。イエスには誰も知らない名が記されていましたが、その名を知るのはイエスご自身だけでした。この研究に与えられている名前は、同じ箇所に現れています。それらの名は「忠実」また「真実」、「神の言葉」、「王の王、主の主」です。)
46. L4. 書物が開かれる
ヨハネの黙示録 20:11 シェア↗ また 見 ていると、 大 きな 白 い 御座 があり、そこにいますかたがあった。 天 も 地 も 御顔 の 前 から 逃 げ 去 って、あとかたもなくなった。 (12) また、 死 んでいた 者 が、 大 いなる 者 も 小 さき 者 も 共 に、 御座 の 前 に 立 っているのが 見 えた。かずかずの 書物 が 開 かれたが、もう一つの 書物 が 開 かれた。これはいのちの 書 であった。 死人 はそのしわざに 応 じ、この 書物 に 書 かれていることにしたがって、さばかれた。 (13) 海 はその 中 にいる 死人 を 出 し、 死 も 黄泉 もその 中 にいる 死人 を 出 し、そして、おのおのそのしわざに 応 じて、さばきを 受 けた。 (14) それから、 死 も 黄泉 も 火 の 池 に 投 げ 込 まれた。この 火 の 池 が 第 二の 死 である。 (15) このいのちの 書 に 名 がしるされていない 者 はみな、 火 の 池 に 投 げ 込 まれた。
もろもろの書が開かれた + もう一つの書が開かれた、それはいのちの書である → いのちの書に名の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
(私の個人的な考え:ヨハネの黙示録20章12節では、御座の前に二種類の書物が現れます。一つの書物は人々の行いを記録するものです。もう一つの書物は名前を記録するもので、命の書と呼ばれます。ヨハネの黙示録20章12節は、行いの書に書かれていたことによって誰かが救われたとは述べていません。ヨハネの黙示録20章15節は、結果を決定した唯一のことは、その人の名前が命の書に書かれていたかどうかであったと述べています。)
47. L5. 選択 ― 聖書がこれ以上ないほど明確に語っていること
ヨハネによる福音書 3:18 シェア↗ 彼 を 信 じる 者 は、さばかれない。 信 じない 者 は、すでにさばかれている。 神 のひとり 子 の 名 を 信 じることをしないからである。
信じない者はすでに罪に定められている。
ヨハネによる福音書 3:36 シェア↗ 御子 を 信 じる 者 は 永遠 の 命 をもつ。 御子 に 従 わない 者 は、 命 にあずかることがないばかりか、 神 の 怒 りがその 上 にとどまるのである」。
御子 を 信 じる 者 は 永遠 の 命 をもつ.
ローマ人への手紙 6:23 シェア↗ 罪 の 支払 う 報酬 は 死 である。しかし 神 の 賜物 は、わたしたちの 主 キリスト・イエスにおける 永遠 のいのちである。
罪 の 支払 う 報酬 は 死 である → しかし 神 の 賜物 は、わたしたちの 主 キリスト・イエスにおける 永遠 のいのちである.
(私自身の考察:ローマ人への手紙6章23節は、この学び全体の中心となる聖句である。ローマ人への手紙6章23節は、二つの部分からなる一つの短い文である。罪には支払われるべき報酬があり、その報酬は死である。その支払いは二つの方法のどちらかでなされる。人が自分でその支払いを永遠に行うか、あるいはイエスが既に支払われたものを贈り物として受け取るかである。それが選択のすべてである。選ばないこともまた第一の道を選ぶことと同じであるゆえ、誰もその選択を免れることはできない。「我々は人を造ろう」という創世記1章26節の言葉から、ヨハネの黙示録20章の御座に至るまで、この学びのすべてが、その一つの決断へと積み上げられてきたのである。まだその決断を下す時間は残されている。イエスは今も呼びかけておられる。)
1. 使徒行伝 4:12 シェア↗ この 人 による 以外 に 救 はない。わたしたちを 救 いうる 名 は、これを 別 にしては、 天下 のだれにも 与 えられていないからである」。
この 人 による 以外 に 救 はない → わたしたちを 救 いうる 名 は、これを 別 にしては、 天下 のだれにも 与 えられていないからである」.
閉会
ヨハネの黙示録 22:17 シェア↗ 御霊 も 花嫁 も 共 に 言 った、「きたりませ」。また、 聞 く 者 も「きたりませ」と 言 いなさい。かわいている 者 はここに 来 るがよい。いのちの 水 がほしい 者 は、 価 なしにそれを 受 けるがよい。
御霊 も 花嫁 も 共 に 言 った、「きたりませ」 → いのちの 水 がほしい 者 は、 価 なしにそれを 受 けるがよい.
ヨハネによる福音書 3:17 シェア↗ 神 が 御子 を 世 につかわされたのは、 世 をさばくためではなく、 御子 によって、この 世 が 救 われるためである。
神 が 御子 を 世 につかわされたのは、 世 をさばくためではなく → 御子 によって、この 世 が 救 われるためである.
(私個人の思い:聖書における最後の招きは何も代価を求めず、誰にでも差し出されています。そこで使われている言葉は「望む者」です。その言葉は意図的に誰も除外しません。この学びを読んでいる最悪の人物も、何年も断り続けてきた人も、除外されることはありません。これらすべてであるイエスが、「来たれ」と言っておられる方です。人がなすべきことはただ、来て、命の水を受け取ることだけです。)
練習クイズ
1. 創世記1:26 ― 神は言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう:
a) 我々のかたちに似せて
b) 見よ、それは非常に良かった
c) 神のかたちに彼を創造したまえり
2. イザヤ書7章14節 — 見よ、おとめはみごもりて男の子を産まん:
a) その名をイエスと名づくべし
b) その名をインマヌエルと呼ぶべし
c) 彼らはその名をインマヌエルと呼ぶであろう
3. 士師記13:22 — マノアはその妻に言った、われわれはきっと死ぬであろう。
a) われは唇けがれたる者なればなり
b) あなたの立っている場所は聖なる地であるから
c) 私たちが神を見たから
4. 詩篇110篇1節 — 主はわが主に言われた、あなたはわが右に座せよ:
a) われ汝の仇を汝の足台となすまでは
b) なんじの敵のなかにありて統べ治めよ
c) なんじの敵をなんじの足台とするまで
ヘブル人への手紙一章八節 — されど御子については『神よ、汝の御座は世々限りなく』と宣ひ、
a) 公義の杖は汝の国の杖なり
b) あなたの王国の杖は正しい杖である
c) その政は彼の肩にある
6. 創世記22章8節 — 神が自ら燔祭の羊を備えられる:
a) それを自分の子イサクに負わせた
b) かくて二人ともに行けり
c) 火と薪を見よ
7. テサロニケ人への第二の手紙1章9節 — 主の御顔を離れて、永遠の滅びの刑罰を受ける者たち:
a) その力の栄光から
b) すなわち第二の死
c) その威光の栄光のために
解答: 1-a, 2-b, 3-c, 4-c, 5-a, 6-b, 7-a
この答えの背後にある証人たち
この答えは、一人の記者の声だけに基づくものではない。モーセ、ヨシュア、士師記の記者、歴代志の記者、そしてダビデが、これに与っている。イザヤ、ミカ、マラキもまた同様である。マタイ、ルカ、ヨハネもまた同様である。ペテロは五旬節に語る。ピリポは荒れ野の道で語る。パウロは八つの書簡にわたって書く。ヘブル人への書の記者がそれを締めくくる。それは十五の声であり、聖書二十八の書にわたり、創世記の第一章からヨハネの黙示録の最後の章に至るまでである。十五の声すべてが、同じ人物について同じことを語っている。
このスタディの分岐
影がどのように光を指し示すか──イサクの背に置かれた薪(創世記22:6)と、御子の背に置かれた十字架(ヨハネ19:17)。影は山の上に現れた。体は都の外に現れた。
→ 言葉がいかに重要であるかを示す例:英語の一語「主」は、詩篇110篇1節において二つの異なるヘブライ語を表している。その二つのヘブライ語とは、ヤハウェ(H3068)とアドン(H113)である。マタイによる福音書22章45節でイエスが展開された議論全体は、この違いに基づいている。
これがあなたにどう当てはまるか:イエスは来られた方であるだけではありません。イエスは来られる方であるだけでもありません。イエスは今あなたのうちに生きたいと願っておられる方です(コロサイ人への手紙1:27、ガラテヤ人への手紙2:20)。
これが永遠にとって何を意味するか。罪の報酬は死である。神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちである(ローマ6:23)。人が罪の負債を払う道は、この二つしかない。
→ 余談:詩篇110篇4節とヘブル人への手紙第7章は、メルキゼデクの祭司職に関する教理全体への入り口となっている。この教理は、律法よりも古く、神が取り消すことのない誓いによって誓われた、一人の人において王と祭司が結び合わされていることを描いている。この教理は、それ自体で一つの完全な学びに値する。
→ 脇道:創世記1章26節の「われら」と「われらの」は、申命記6章4節の「唯一の主」と結び合わされ、神格についての完全な研究へと開かれていく。神格とは唯一の神であり、父、子、聖霊が聖書全体を通して異なる位格として名づけられている。この研究はその完全な研究のほんの一端に触れたにすぎない。
→ 寄り道:テサロニケ人への第二の手紙1章7〜10節とヨハネの黙示録19章11〜16節は、イエスの再臨に関する教理全体へと開かれている。この教理には、イエスの再臨の確実性、イエスの再臨の突然性、そしてイエスの再臨を待ち望めという命令が含まれる。はっきりと述べよ:聖書はイエスの再臨の確実性を述べており、イエスの再臨の日程を告げることは拒んでいる(マタイによる福音書24章36節、使徒行伝1章7節)。この働きもまた、イエスの再臨の日程を告げることを同様に拒む。
→ 余談:創世記3章15節の「女の子孫」は、約束された子孫という主題全体への入り口となっている。この主題は、アブラハム(創世記22章18節)を通り、ダビデ(詩篇132篇11節)を通って続き、ガラテヤ人への手紙3章16節ではっきりと名指しされている。
→ 可能な啓示:創世記32章で、ヤコブは組み打ちをした者にその者自身の名を尋ねたが、断られた(創世記32:29)。マノアは主の使いにその使い自身の名を尋ねたが、その名はピリイ(H6383)、知るにはあまりにも不思議であると告げられた(士師記13:18)。それからイザヤは、私たちに生まれる子は不思議者、ペレ(H6382)と呼ばれると言う。それは同じ語根から来ている(イザヤ書9:6)。旧約聖書で秘められていた名が、一人の幼子の上に告げられる。聖書の終わりで、天から出て来られるイエスは、なお彼自身のほかだれも知らない名を持っておられる(ヨハネの黙示録19:12)。その名は与えられており、その名はこの研究で語られてきたよりもさらに深いものである。
公開の招き — あなたが誰であっても、読み続けてください
このスタディを読むために、クリスチャンである必要はありません。多くのことがあなたをここへ導いたかもしれません。探求心があなたをここへ導いたかもしれません。ある議論があなたをここへ導いたかもしれません。長年抱えてきた問いが、あなたをここへ導いたかもしれません。誰か他の人の信仰への興味が、あなたをここへ導いたかもしれません。このウェブサイトにあるすべては、あなたのものです。無料で、あなた自身の言語で。私たちはあなたの名前を尋ねることはありません。私たちはあなたの国を尋ねることはありません。私たちはあなたが何を信じているかを尋ねることはありません。一つのスタディでイエスを完全に描き切ることはできません。私たちはこの問いに持てるすべてを注ぎ込みましたが、このスタディでもなお、聖書を通る一本の道を歩んだだけです。イエスは初めの前から存在していました。イエスは今も存在しています。イエスは再び来られます。そのすべてを描き切るページは、たった一つでは足りません。さらに多くのスタディがここに用意されています。憐れみについてのスタディがここに用意されています。知恵についてのスタディがここに用意されています。知識についてのスタディがここに用意されています。忍耐についてのスタディがここに用意されています。敬虔についてのスタディがここに用意されています。さらに多くのスタディが準備中です。これらのスタディはどの順番で読んでいただいても構いません。進めながら、私たちの引用元を確認してください。これらのスタディに載っているすべての聖句は、意図的に全文が印刷されています。あなたは私たちの言葉をそのまま信じる必要は決してありません。すべての聖句を、あなた自身で吟味することができます。
もう一つの招きがこの後に続く。その招きが隠されているふりはしない。その招きとは、人が救われるために何をすべきかについての学びである。今すぐそれを読みたいなら、今すぐ読んでよい。他のものを先に読みたいなら、先に他のものを読んでよい。誰も数えてはいない。どちらにしても扉は開いたままである。パウロは、自分自身の神ではない神々の祭壇で満ちた町で、以下の言葉を語った。パウロは、その町に来てほしいと頼んだわけではない人々に、これらの言葉を語った。
使徒行伝 17:26 シェア↗ また、ひとりの 人 から、あらゆる 民族 を 造 り 出 して、 地 の 全面 に 住 まわせ、それぞれに 時代 を 区分 し、 国土 の 境界 を 定 めて 下 さったのである。 (27) こうして、 人々 が 熱心 に 追 い 求 めて 捜 しさえすれば、 神 を 見 いだせるようにして 下 さった。 事実 、 神 はわれわれひとりびとりから 遠 く 離 れておいでになるのではない。
神は一つの血よりすべての国々の人を造り出だし給えり → これ彼らをして主を尋ね求めしめ、見出させんためなり + 主は我らおのおのより遠く離れ給わず。
ヘブライ語キーワード
これはこのスタディのキーワードです。上の聖句の中の点線付きの単語をタップすると、意味がここに表示されます。
“御使い / 使者” —
H4397 malak —
遣わされた者;使者;御使い この言葉は使命を指し示すものであり、本質を指すものではありません。この言葉は人間に対して用いられます。この言葉は預言者に対して用いられます。この言葉は天的な存在に対して用いられます。この言葉だけでは、送られた者が「何であるか」を決して示しません。この言葉だけでは、ある人が送られたということしか示しません。残りのことは、周囲の聖書本文が語らなければなりません。これらの記述において、周囲の聖書本文は実際に残りのことを語っています。
“神” —
H430 elohim —
神;神々;まことの神 エロヒームは複数形である。エロヒームは唯一まことの神を指して、単数の動詞とともに繰り返し用いられる。この語自体が、本研究が探っている充満性を担っている。
“主” —
H3068 Yehovah —
神の契約の名であり、欽定訳聖書では大文字の「主」として記されている 旧約聖書において「主」が大文字で表記されている箇所では、その英語の「主」という言葉の背後にあるヘブライ語の名は、エホバである。
“主” —
H113 adown —
主;主人;所有者;支配する者 詩篇110篇1節における「アドーン」の形は「わが主」と訳されている。アドーンはヤハウェとは異なるヘブル語であり、ヤハウェはこの箇所でダビデの主に語りかけておられる。
“一” —
H259 echad —
一つ;結び合わされた;第一 エハド(Echad)は、「主は我らの神、主は一つなり」における言葉である。エハドは、夕べと朝が合わせて「一つ」の日と呼ばれるときに用いられるのと同じ言葉である。エハドは、男とその妻が「一つ」の肉となるときに用いられるのと同じ言葉である。
“一人息子” —
H3173 yachiyd —
ひとり子;唯一の者;孤独な者;愛する者 創世記22章は、イサクを「汝の独子」と三度も呼んでいる。ヤヒドとは、ただ一人だけの者という意味である。
“木” —
H6086 ets —
木;材木;用材;板;棒 エツはヘブル語で、生きている木と切られた木材の両方を表す一つの言葉である。エツは、アブラハムがイサクに背負わせた薪を表す言葉でもある。
“素晴らしい” —
H6382 pele —
驚き;不思議;理解を超えたもの ペレは、イザヤ書9章6節でその子に与えられた最初の名である。
“秘密 / 不思議” —
H6383 piliy —
くすしき;測り知り難きほどにくすしき ピリイはマノアに主の使いが自分の名を表すために与えた言葉である。ピリイはイザヤ書9章6節の「ペレ」と同じ語根から来ている。
“処女” —
H5959 almah —
未婚の若い女性、処女、乙女 アルマーはイザヤ書7章14節で用いられている言葉である。
“インマヌエル” —
H6005 Immanuwel —
神は我々とともにいる インマヌエルとは、それ自体で一つの文を成す名である。マタイはこの名を読者のために訳している。
“君主” —
H8269 sar —
長;首領;隊長;君;支配者 エリコの外で抜き身の剣を持つ人が名乗った称号は「サル」である。
“わたしはある” —
H1961 hayah —
ある;存在する;なる ハヤー(Hayah)は、燃える柴における「わたしはある、というものである」の根底にある語根である。
ギリシャ語キーワード
“言” —
G3056 logos —
ことば;言い伝えられること;語られたこと;思いの表現 ヨハネはヨハネの福音書を誕生の記事から始めていない。ヨハネはヨハネの福音書を、初めよりも前から始めている。
“宿った” —
G4637 skenoo —
テントを張ること、宿営すること、テントに住むこと 「言は肉体となりて我らの中に宿れり。」この節は、人が天幕に住むように、神が人間の体の中に住まわれたことを描いている。
“独り子” —
G3439 monogenes —
ひとり子;唯一のもの;その種の中で唯一のもの モノゲネスは御子について用いられる。モノゲネスはヘブル人への手紙11章17節でイサクについても用いられている。
“宣言された” —
G1834 exegeomai —
導き出すこと、連れ出すこと、詳しく告げること、知らせること いまだかつて神を見た者はいない。独り子なる御子が、神を人の見える所へと導き出されたのである。
“和解した” —
G2644 katallasso —
敵意から友好へと変えること、また好意のうちに立ち返らせること カタラッソーという言葉は、十字架の理由全体を一語で言い表している。
“和解” —
G2643 katallage —
恵みの回復。分かれた両者を再び結び合わせること カタラゲー(katallage)は、上記のカタラッソー(katallasso)と同じ語根から来ている。カタラッソーは和解の行為──引き離されていた二者の間の友情の回復──を表す言葉である。カタラゲーは、その和解の結果を表す言葉である。
“赦免” —
G859 aphesis —
送り出すこと;釈放;解放;赦し 血を流すことなしには、罪が送り去られることはない。
“神秘” —
G3466 musterion —
秘密、かつて隠されていたが今は告げられたもの 聖書における奥義とは、決して解くべき謎ではない。聖書における奥義とは、神が明かすことを決めた秘密である。
“復讐” —
G1557 ekdikesis —
公義より出づるもの;不正の完全な正しき償い ekdikesisはテサロニケ人への第二の手紙1章8節で用いられている言葉である。ekdikesisは制御されない怒りを意味するのではない。ekdikesisは完全に執行される正義を意味する。
“初子” —
G4416 prototokos —
長子;最初に生まれた者 父は御子について「神の使いたちはみな彼を拝すべし」と言われる。
誰もが問うべき最も大切な問い――「私は救われるために何をすべきか」。
答えを読む → SOURCES & CREDITS
Scripture: Kougo (Colloquial) (Public Domain (1955 口語訳聖書 — Japan Bible Society's own copyright page confirms the copyright protection period has ended; see registry/JAPANESE_LEGAL_PATH.md. Moral/integrity rights are preserved under Japanese law, so the text is rendered verbatim only, never altered -- pipeline.VERBATIM_LANGS.)) — a redistributable edition, looked up exactly and never machine-translated.
Alternate chapter/verse numbering reconciled with STEPBible TVTMS (CC BY 4.0).
Strong's numbering & original-language data: OpenScriptures Hebrew Bible (CC BY 4.0); STEPBible.org — TAHOT/TAGNT/TBESH/TBESG (CC BY 4.0); Robinson-Pierpont Byzantine Majority Text (Public Domain); Strong's dictionary, 1890 (Public Domain).
Typography: Google Noto fonts (SIL Open Font License 1.1).
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